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                           詩の定義
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「詩の定義」といわれたとき,わたしがすぐに思い出すのは,「荒地詩集」1953年
および1954年版に,加島詳造・北村太郎のお二人が書かれた同じ題名のエッセイで
す.ちょうどそのころ詩のようなものをノートに書きはじめていたわたしにとって,
この二人の先輩詩人によることばの技法 (詩を成り立たせている基本的な要素であ
るさまざまな比喩のあり方) についてのレクチャーから,学んだことがきわめて多
かったように思います.

1954年にやはり荒地グループの手で刊行された「詩と詩論 2」も,また,詩とは何
かをわたしに考えさせる上で,かなりのインパクトを持つ1冊でした.中桐雅夫さ
んのエッセイ「よい詩とわるい詩」は,それまでに書きためたノートを,すべて,
どうしようもなく「わるい詩」として破棄させる鋭い眼の批評家の役割をはたして
くれました.この本の巻頭には,田村隆一さんの傑作「四千の日と夜」も掲載され
ていて,まだ若かったわたしを圧倒しました.その影響から抜けきれるまでに,そ
れから数年の時間が必要でした.

「よい詩」が持つ力がそのように劇的であるのと対照的に,「わるい詩」は,もっ
と弱い,しかし持続する影をわたしたちの心に落とすようです.S.I.Hayakawa が
「思考と行動における言語」で指摘しているように, いま, わたしたちの周囲には,
さまざまなコマーシャルや政治プロパガンダなどに代表される「わるい詩」があふ
れています. それらの「わるい詩」そしてその実体である「わるい比喩」は, 知ら
ず知らずのうちに, わたしたちの心を曇らせてしまうのです. やはり上述の「詩と
詩論 2」に収められた長いエッセイ「われわれの心にとって詩とは何であるか」の
なかで, 鮎川信夫さんも次のように書いています:

    ..... 世間には, こうした観念の社会的通貨として流通している悪い比喩が
    たくさんあります. 新聞, 雑誌, ラジオ, 演説, その他マス・コミュニケー
    ションのあらゆる機関を通じて, このような悪い比喩が拡がっています. 悪
    い比喩はわるい社会において猛威をふるうものです. 現代には詩がない, な
    んて誰がいうのでしょうか. むしろ, われわれの周囲は悪い詩でいっぱいな
    んだというべきです. ぼくらのいうわるい詩人とは, それらのわるい比喩, 
    わるい詩の影響に, 無批判にそまってしまう者のことを指しているのです. 
    ぼくは, 詩を書く一つの理由として, それらのわるい比喩との戦いをあげた
    いくらいですよ.

40年前に, 熱っぽくかたられたこの詩人のことばが, いまもなおそのままあては
まるというあたりが, 現代詩がおかれた苦しい状況をあらわしているのではない
でしょうか?

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ところで, 詩を書くさいにわたしたちが使う「ことば」という道具の持つ魔術的な
働きとその危険性について鋭い警告を発したのは,今世紀前半に生きたアマチュア
言語学者ベンジャミン・リー・ウォーフでした.

    「言語はそれを使う人間の非言語的行動にも影響を与えそれを制約する」

というかれの問題提起は,アインシュタインの相対性理論とならんで,言語学的相
対論仮説と呼ばれ,20世紀における最大の知的発見の1つといわれています (池上
嘉彦・訳「言語・思考・現実」講談社学術文庫).

言語表現とは,それ自体は何の意味も持たない記号のつながりにすぎません.そう
した記号列に,それでは,どうしたら意味を与えることができるか? 常識的には
それぞれの記号と現実世界に存在するモノとの対応づけによって,ことばの意味と
いうものが考えられているるわけですが,しかし,恐ろしいことに,あるアメリカ
人哲学者の手によって,そうした意味づけは無効であることが,記号論理学的に証
明されてしまったのです.

たとえば,ひとつの命題を表す文(ステートメント)を考えたとして,それを構成す
る各要素と現実との対応づけを変えたとしても,命題の真偽が変化しないような反
例をいくらでもあげることが可能だというのが,その証明 (パトナムの定理) のポ
イントです.いいかえれば,ひとつの文章の中の単語をとりかえても,文章全体の
意味が変化しないという場合が考えられるのです (詳しい説明は,たとえば,G.レ
イコフ「認知意味論」紀伊国屋書店の第15章「パトナムの定理」参照).

これは,数学における非ユークリッド幾何学の発見に匹敵するくらいの事件です.
ことばという記号を唯一の武器として詩を書いているわたしたちにとっては,きわ
めてショッキングな事実だといえましょう.

意味分節化のツールとしての言語を放棄して,素手で世界に立ち向かった時,わた
したちの目の前に出現するであろう (いわば言語以前の無分節的な) 世界の本質と
はいったい何でしょうか? いまのわたしにとって, この問いかけへの答を探すこ
とが, 詩を書くことの (そして同じように, 絵を描くことの) 最終目的であるよう
に感じられます.
					(fj.rec.poems: March 12, 1998)


SRA KISHIDA Kouichi, k2@sra.co.jp