ものと風景
(抽象芸術論覚書 1999)
− いすグループ展 '99 −
岸 田 孝 一
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1. 沈黙のポップアート
この春,アメリカ出張のおり SFMOMA(San Francisco 近代美術館)
を訪ねる機会があった.ここは,わたしがもっとも好きなミュージア
ムのひとつである.もともとは市役所の近くの古い建物の中にあった
のだが,数年前,マーケット通り東側の再開発の一環として新しい建
物に引っ越した.設備としてはニューヨーク近代美術館より充実して
いるといえるかも知れない.それにあちらはどちらかといえばヨーロ
ッパ美術の影響が濃いが,ここはわたし好みのカリフォルニア現代美
術の展示が中心である.
2階のメイン展示はたまたま 「マチス以降」というタイトルで 20
世紀現代美術の回顧(アメリカのある大金持のコレクションらしかっ
た).わたしが師匠と仰いでいる Joseph Albers の作品(正方形賛歌,
Ode to Squares, 微妙に色の違ういくつかの正方形を重ねあわせたも
の.Albers はそれしか描かなかった)も2点ほどあり,なつかしかっ
た.また,兄弟子(これもわたしが勝手に思い込んでいるだけだが)
Bob Rauchenberg の作品も1点.かれの Composite Art は,なみの
ポップアートとはどこかちがう感じがする.
3階から上はさまざまな企画展示.そのなかで,とりあえずおもし
ろかったのは,"Inside Out”と題された 中国現代美術展.アメリカ
顔まけのポップ感があふれていて,どうしてこんなおもしろい企画展
がお隣の日本ではできないのだろうかと思った.やはり,明治以降の
欧米偏重主義のせいか? あちこちに, 箱として の美術館はできるが,
どこにいっても同じようなコレクション展示ばかりという日本の状況
は,かなしいとしかいいようがない.
もうひとつ興味深く感じた企画展示は,女性の現代美術家の作品を
集めたもの.たしか,"Women in Work" というタイトルだったと思う.
日本人では,ニューヨークで活躍していた草間弥生さんの作品が何点
か出ていた.あらためてこうして女性の手になる絵画や彫刻を眺めて
みると,シュールリアリズム系統の作品では,男性の作品よりはるか
に質がよいという感じを強くした.世間一般には,ダリやエルンスト
などの評価が高いが,それは男性上位社会の偏見がなせるわざのよう
な気がした.
といった感じでいろいろな感想を抱きながら2階から5階までのギ
ャラリーを巡り歩き,最後の展示室に足を踏み入れた.
そこは,なんの飾り気もない広い空間で,そこに細長いテーブルが
3台,静かに置かれていた.しかし,よく見るとそのテーブルのそれ
ぞれは,形も大きさも少しずつ異なる2台のテーブルから,それぞれ
片側の2本の脚を切り取ってつなぎあわせたものであって,合計6台
のテーブルからなっていることがわかった.
いずれも粗末な木製の古ぼけたテーブルで,田舎の農家の食卓でで
もあったかと思われた.近寄ってみると,その表面には小さな孔が無
数に開けられていて,その上を人間の髪の毛や細かい絹の糸で覆って
あるのが見えた.
それは,これまでにわたしが見たポップアート作品の中で,もっと
も静かな印象を与える作品であった.たまたま,そのとき,わたしと
連れの友人のほかには,だれも鑑賞者がいなかったので,そうした印
象が強められたのかもしれないが .....
しばらく,それらのテーブルのあいだを歩きまわり,入り口の表示
で,だれのなんという作品かを調べようと思った.
"New Work - UNLAND by Doris Salcedo"
とあった.入り口においてあったパンフレットのようなものを何気な
く拾い上げて,そこをあとにした.そのパンフレットに目を通したの
は,翌日の午後,日本への飛行機の中であった.
Doris Salcedo は, 南米コロンビア生まれの 女流彫刻家 である.
UNLAND という作品のタイトルは,英語でもスペイン語でもない造語
で,かの女が,第2次対戦のホロコーストを生きのびた (しかし最後
は自殺してしまった) 詩人 パウル・ツェランの作品からヒントを得
て作った造語だという.コロンビアは,政情不安にもとづく内戦と麻
薬戦争とで有名な国である.昨日まで一緒につきあっていた人間が突
然消えてしまったり,あるいは,わけのわからない理由で逮捕され死
刑に処せられるといったことが,日常茶飯事として起こる社会である
らしい.
Doris は,そうした事件で取り残された遺族たちとあって,かれら
の話を聞き,いわば「第2の証人 Second Witness」としての自分の
思いをこの作品で表現しようと試みたのだという.アメリカの美術評
論家とのインタビューがパンフレットに載せられていたが,そのなか
で,かの女は,ある哲学者のことばを引用して, 次のように述べてい
る;
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− 悲劇の英雄にとっての唯一の言語は「沈黙」です.芸術の世界
では「沈黙」は,すでに,表現されなかったもの,あるいは表現で
きないものについて語るためのひとつの言語(言語以前の言語) と
して存在していました.芸術は,すべての人間に共通した何かを,
ことばを用いずに伝達する手段です.
いま, わたしの周囲で起こっている悲劇は, 別にコロンビアだけ
に固有のできごとではありません.たまたま, いまここで起こって
いるだけのことで, 歴史をふりかえれば, おなじような悲劇はあち
こちにちらばっていることがわかるでしょう.
コロンビア社会の暴力の被害者たちの沈黙,芸術家としてのわた
しの沈黙,そして,わたしの作品を鑑賞する人びとの沈黙,それら
はけっしてひとつのコミュニティを形成するわけではありません.
沈黙は沈黙のままでとどまるのです.
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かつて,わたしが詩 (のようなもの)を書きはじめたころ,田村隆
一さんの作品を読んで強い衝撃を受けた記憶がある.その詩は次のフ
レーズではじまっていた:
ひとつの沈黙がうまれるのは
天使が「時」をさえぎるからだ
この詩に対抗すべく,わたしが自分の幼時戦争体験をイメージして
作った作品は次のようなものだった:
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顔のない唄
冬は
いてついた空をすべってゆく舟のように
空はもうこわれてしまったので
わたしの影が
帆柱のかたちをして
ねむれずに
広場のほうへ
錨綱は
いつまでも
くりだされるばかり
しかたのない上陸
もう さむいともいえないので
にあわない着物はぬいでしまう
この
縫い目もポケットもないシャツさえ
そして いってしまったわたしの顔のなかで
− ゆるしてくれるの
だれがだれをゆるしてくれるの
まだあどけない戦争たちはうたうけれど
木は 木にふさわしいあいさつ
けものたちは 殺す
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最後の2行が,その当時のわたしにとって精一杯の「沈黙」の表現
だったのだが, しかし, いま読み返してみると, 全体の構成がいかに
も稚拙であって, したがってまだ, わたしの心のなかでは, この作品
は,未定稿扱いのままになっている.
ふつう,ポップアートは,それがニューヨークではじめられたせい
もあってか,喧騒の中の孤独感を表現するような作品が多い.有名な
例をあげれば,Andy Warhol がそうだし,Jasper Jones そのほかの
作家も,だいたいその路線を継承している.変わり者は, Rauschen-
berg や Richtenstein,あるいは最近では Jeff Koons くらいなもの
だろう.
Doris Salcedo のポップアート (Internetで調べてみると,かの女
の作品は,日常的な家具を材料にして,それにいろいろ加工したもの
が多いようだ) は,これまでの作家たちとは,まったくちがう方向を
目指しているようだ.
またひとり,その人と同じ時代に生きていることがうれしいような
芸術家の作品にめぐりあったことが,この旅の最大の収穫だったよう
に感じられる.
2. 風景のなかの色彩
8月初めに中国・太原市で会議があり,そのついでに世界文化遺産
に選ばれた城壁の街・平遥,仏教の聖地・五台山,雲崗石窟で知られ
る大同など,山西省の各地を巡って,内蒙古の草原まで足を伸ばした.
その時点ではまだ,このグループ展の作品の準備ができていなかっ
たので,そのウォーミング・アップを兼ねて,ポップアートの手法を
借りた一連の叙景詩を試作することを試みた.
そのさい,わたしが設定した全体のゲーム・プランは,およそ次の
通りであった:
抽象画家としてのわたしの基本的な方法論は,いっさいの意味を剥
ぎとった色や形を組み合わせて作品を構成するというものだ.しかし,
わたしたちが日常生活のなかでであうすべての色や形には,それぞれ
の意味が深くしみこんでいるので,それを剥ぎとるにはかなりの工夫
が必要になる.無意識描法やコラージュ,ドリッピングその他,さま
ざまな技法がこれまでに考案されていて,わたしはそれらを組み合わ
せて利用するのが常である.
ポップ・アーティストたちのアプローチは,色や形のそうした日常
性を逆手にとり,意味をむき出しにした色や形をさまざまに組み合わ
せて画面をつくりあげることによって,いわば意味の過剰効果の働き
で,色や形の無意味性を暗示しようというトリッキーなやり方だと,
わたしは理解している.
詩の場合,作品はまさしく意味のかたまりであるコトバを材料とし
て構成されるので,絵画におけるような無意味の抽象性を実現するの
は,よりいっそうむずかしくなる.
今回の一連の試作にさいしてわたしが採用した方法は,あらかじめ
一つの色彩を作品のテーマとして選び,目の前に展開される風景に,
これまでいくつかの歴史書や文学書で仕入れてきた複数の意味を無理
やり重ね焼きし,結果として無意味なその色だけを浮かびあがらせよ
うというもの.
はたしてそれが成功したかどうかは,結果としての作品をみていた
だかなければわからない.
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Green Phantom
みどりいろの妖怪が
朝霞のなかで
静かに時間を食べている
歴史の妖怪
城門に続く路の両側に
妖怪たちが黙って立ちならんでいる
風にそよぐ
かれらのみどりの髪
自転車の娘たちが
次々に城門をくぐってゆく
おそろいの
緑衣をきた痩身の娘たち
わたしは
かの女らの冷たい視線を避けて
狭い城壁のうえにのぼり
失われたことばのかけらを探す
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[Postscript] 太原は, 中国でも有数の大気汚染ののひどいところだ
が, 一歩市外に出ると, 田園のなかを走る道路の両側には巨大な柳の
並木が続いていて, 緑ゆたかである.古代・晋王朝の遺跡には, 樹齢
なんと 3,500年もの柏の老木がまだ生きていたりする.白川静さんの
詩経解釈で読んだ緑衣を主題とする一篇がふと心に浮かんだ.平遥の
城壁はたしかに文化遺産にふさわしいが,一歩なかに足を踏み入れる
と,なんの変哲もない田舎町である.
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Yellow Dust
きいろい村をきいろい風が吹きぬけ
人が渇き
家が乾き
そして川が渇く
きいろい崖下の寺院では
やせた僧侶たちの誦経が乾き
山門の四天王たちの
笑いも乾く
崖ぎわにしがみついたちいさな木々は
まるで芋虫のように
身をよじり
いつか龍になる日を夢みている
村はずれの乾いた橋のたもとで
いくら待っても
ろばをひいた乞食姿の水神など
やってこない
もしかしたらかれはもう
ひとりの少年のかたちを借り
恋人を背後に載せた二輪摩托で
街のほうへ走りさってしまったのかもしれない
そして
橋のしたでは川が渇き
毒入りの酒を求めて人が渇き
きいろい村をきいろい風が吹きぬける
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[Postscript] 山西省の黄河台地はどこも乾いていた.そこここに植
林の努力はみられたが, その効果があらわれるにはまだ何十年もかか
るだろう.観光ホテルが乱立する五台山には, もう聖地の面影は残っ
ていない.しかし, マルコ・ポーロの東方見聞録を凌駕するドキュメ
ンタリー「入唐求法巡礼行記」を残 した円仁和尚ゆかりの竹林寺は,
そうしたブームから取り残され, ほとんど荒れ果てたままの姿であっ
たのが, かえって印象に残った.「牧童遥指杏花村」という杜牧の詩
で知られる酒蔵の町は,何年か前に起きたメチル入り偽酒騒動のショ
ックから立ち直りつつあると聞いたが,これもまた,しばらく時間が
かかりそうであった.
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Blue Cliff
空にぶらさがった僧院へ
崩れかけた石の階段がのぼってゆく
ふりかえると
霧が
忍び足であとをついてくる
先導したはずのガイドは
いつのまにかどこかへ消えてしまった
藍いろの崖の中腹にしがみついた狭い礼拝堂に
しかし僧侶たちの姿などはなく
ただ亡霊の気配だけが漂っている
藍いろの崖のうえのほうで
だれかが呼んでいるような気がするのだが
窓からのぞいても何もみえない
となりの部屋で
ほこりまみれの塑像たちが微笑っている
何層にも重なりあった僧院の回廊を
あてもなく歩きまわっていると
瑠璃いろのアゲハチョウが一羽
どこからともなくあらわれて
霧のなかへいっしょに跳ばないかとわたしを誘う
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[Postscript] 大同市郊外にある道教の聖地・恒山の入口の崖に作ら
れた懸空寺は, 文字通り中空にひっかかった建築物である.予想した
ほど高いところにあるわけではないが, 実際にのぼってみると, かな
り怖い. ロベルト・ファン・フーリクのディー判事シリーズの1冊に
唐代の代表的 女流詩人・魚 玄機の殺人事件を扱った "Poets and
Murder" があり,この詩はあのミステリのムードを思い出しながらま
とめたものだが,現実の懸空寺は,日本人・フランス人・そして中国
人の観光客で一杯で,とてもじゃないが,幽玄とは程遠い雰囲気であ
った.
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Jade Horse
はるか東の緑の地平線に
わたしをここまで送ってきたジープが消えて行く
石くれを積んでつくられたオボを背に
わたしはひとり
南の水場に何頭かの馬の姿が見える
北側はこことおなじ低い丘のつながり
遠くのオボに立てられた旗印が
かすかな色をみせて風にはためいている
西に傾こうとしている太陽を追って
オボの向こう側にまわりこもうとしたとき
その人はふいにあらわれたのだった
うすいアーモンド色のその瞳
― ここの空はあなたの住む都会とくらべて
色がもっと蒼いでしょう?
たしかに
サングラスをはずしても
大草原の空は
むしろ黒く
そしてわたしたちの上に低くせまってくる
― ほら,あそこに遠くみえる羊の群れ
あのなかの白い100匹がみんな
あなたの魂
謎めいたかの女の微笑
たったひとつしかないわたしの肉体に
いったいどうやって
100個もの霊魂を
おさめたらよいのだろうか?
そんなわたしのとまどいを
見透かしたかのように
かの女の細い瞳がわらう
いつのまにか
軍装に翠いろのマントをまとって
― そんなに弱い心では世界を相手に戦えません
もしできれば
わたしの左翼の兵士たちをみんな
あなたの指揮にゆだねようと思っているのに
蒼い空がまた少し
わたしの上に落ちかかってくる
その人を載せた白馬は
わたしの真昼の夢の扉にきえてゆく
遠くの雷鳴
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[Postscript] この最後の作品は,内蒙古自治区の首都・フフホトか
ら背後の大青山を越えて,一番近くに位置する草原地帯へ日帰りのツ
アーを試みたときの記憶にもとづいたもの.360度すべて地平線と
いう風景は,以前にもアメリカ中西部で見てはいるが,モンゴル大草
原の印象は それとはかなり異なるものであった.
わたしは,去年の春,東京で観た歴史映画のラストシーンを思い出
した.主人公マンドカイ・チェチェン・カタンは,群雄割拠し糸のよ
うに乱れた15世紀末のモンゴル草原を再統一に導いた実在の女傑.
初め,チンギスから数えて第28代目のカーンの後宮に入り,かれが
謀殺された後,その10才の甥をダヤン・ハーンとして夫に迎え,幼
い王を助けるべく自ら鎧を纏い,馬を駆って戦陣を駆けめぐった.
映画は,明帝国の陰謀によって毒殺されたかの女の葬儀,数千頭の
馬に乗った兵士たちが手に手にタイマツを掲げて,その墓のまわりを
周回する夜のシーンで終る.ヘリコプターで空中撮影されたその画面
は, まだ,わたしの脳裏に焼きついている.
3. ポップから抽象へ
われわれの住む「世界」には,さまざまな「もの」が点在し,それ
らの集まりとしての「風景」あるいは「状景」が見える.
そこに見えるものや風景が,はたしてそれを見ているわれわれとは
無関係に存在しうるのか否かというのは,古典的な哲学的問いかけで
ある.現在,この問に無条件でイエスと答えるような素朴実在論者は
もはや少ないだろうが,だからといってはっきりノーと答える反実在
論あるいは非在論に組する人もそう数多くはあるまい.
世の大多数の人びとは,いわゆる内的実在論と呼ばれる妥協的な立
場を心情的に支持しているように思われる.詳しくはヒラリー・パト
ナムやジョージ・レイコフの饒舌な解説に委ねるとして,絵を描くあ
るいは観るという立場についていえば,およそ次のようになる:
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画家は,自分の目で世界を眺め,心の網膜に映ったそのイメージ
を画面にそのまま投影する.絵画が,ひとつの創造的行為だとすれ
ば,それは,かれが自分の目で採集した世界の構成要素を組み合わ
せて,新しい世界(ネルソン・ グッドマンのことばを借りれば,ひ
とつのバージョン) をつくりあげることである.作品には,かれが
世界をそのようにとらえたというかたちで,鑑賞者へのメッセージ
が埋めこまれている.
一方,鑑賞者の基本的態度は,作品にみずからの感情を移入する
ことで,そこにこめられたメッセージを正確に理解しようというか
たちになる.それは,作者が用意したフィルターを通して,世界を
(つまり世界が実在する姿を) 眺めることにほかならない.
このようにして,それぞれの心に内在する世界 (バージョン) の
実在感を共有すること,それが絵画芸術のはたす役割だと多くの人
びとは考えている.
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20紀美術の諸流派を形成した何人かの画家たちは,この図式にたい
して強い不快感を表明した.
その一方の極には,「目に見えるものを見えるようにしか描かない」
という態度を頑固に死守しつづけるスーパー・リアリストたちが位置
している.かれらが「目にみえる」といっているのは,けっして自分
自身の個性的なフィルターを意味しているのではなく,そうした画家
の個性を否定した無名の目,つまりだれの目でもないような目のこと
であって,哲学的にいえば,内在的実在論に対する強い否定の意見表
明だと解釈できよう.
現実世界の表層を漂うさまざまなものや風景あるいはそのコピーと
しての写真などを積極的に作品に取りこみ,一種のコラージュ手法を
用いて作品を構成するポップ・アーティストたちの仕事は,一見する
と,グッドマンのい う既存の世界の構成要素の再 利用による新しい
バージョンの構築であるかのように見えるが,実はそうではない.な
ぜなら,かれらは自分が利用しているさまざまな材料の実在性をまっ
たく信じていないからである.
たとえば Andy Warhol のシルク・スクリーン作品がわれわれに与
える明るい虚無感はそのことをはっきりと物語っている.それをさら
にどぎつくアピールしているのが,Jeff Koons の3次元ポップ・アー
トであろう.数年前,旧 SFMOMA での個展でメインに展示されていた
作品 (イタリアのポルノ女優国会議員と作者自身との全裸ベッドシー
ンを何倍かに拡大した石膏彫刻) は,ポップ・アートの極北の姿を象
徴していたように思う.
そして,わたし自身が属している抽象表現派の流れを汲む諸グルー
プはといえば,「抽象」「表現」派というグループ名そのものが,画
家たちの目指す方向と完全にくいちがっているという事実が,きわめ
て暗示的である.
常識的な定義からすれば,「抽象」とは「具体的な事物からなにか
本質的なものをとりだすこと」を意味していよう.しかし,わたした
ちは別に世界の本質をとらえようなどとは考えていない.また「表現
」とは,「何かを他人につたえるために描くこと」であるだろうが,
わたしたちの作品は,「だれかに何かをつたえるための単なるメディ
ア」なのではなく,それ自体が作者であるわたしたち自身からもまた
鑑賞者であるあなたたちからも独立したひとつの「実在」としてつく
られているのだから.
昨年も引用した批評家ヒルトン・クレーマーの分析的コメント (か
れは抽象表現派を否定しているらしい!?) を最後にもう一度聞いてお
こう:
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抽象表現主義のほんとうの原動力は,絵画をその美学的な本質へと
還元させることに向かっていたのです.つまり,美術をその純粋な語
彙へと還元し,それによって,絵画がどう作られたかということ以外
の経験が,観る人の心のなかに喚起されないようにすること,すべて
の歴史,すべての心理学,そういったその他すべてが,そこでは排除
されます.ある意味できわめて手軽なパラダイスがそこに提示され,
われわれは視覚を通じてそこに入ることができ,永遠にそのなかへ逃
げこむことも可能になるのです.
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KISHIDA Kouichi,
k2@sra.co.jp