過去への漂流

                        抽象芸術論のための覚書 (1998) 

                        - いすグループ展・1998年秋 -



      1969年の末から70年の初めにかけてメトロポリタン美術館で開かれた展
    覧会「ニューヨークの絵画と彫刻:  1940-1970」にからんで記録映画作家
    エミール・ディ・アン トニオが製作したフィルム  "Painters Painting"
    のインタビュー をまとめた本  (邦訳「現代美術は語る」 青土社,1997)
    を,たまたま自宅近くの図書館でみつけた.

      まえがきに続いて,アルファベット順にならべられた登場人物の写真の
    先頭にヨーゼフ・アルバース [1] の顔があった.

      1950年代の半ば,まだ10代の少年だったわたしが,本気で抽象絵画を描
    きはじめようとしたときにお手本にした画家の素顔を,かれがなくなって
    20年以上たってから,はじめて目にしたわけである.あれは,当時まだ京
    橋にあった近代美術館のバウハウス展だったと記憶する.3枚の正方形を
    重ねたかれの「正方形讃歌」シリーズのひとつであった.

      インタビューのなかのアルバースは,その画風とおなじように寡黙だが,
    自分の仕事について次のように語っている:

       −  これくらいはいってもいいかなと思うのは,わたしが近代絵画に
        した重要な貢献なのですが,それは「色彩の相互作用」という概念を
        導入したことです.

         ほら,これをみてください.わたしは何百本ものチューブをもって
        います.黄色だけでも 60 本.こちらには赤のカラー・チャートがあ
        る.でも,わたしは色を混ぜあわせません.作品全体が完成したとき,
        はじめて,自分が失敗したかどうかがわかるのです.

         いつもきかれます.現代の画家でだれをいちばん高く評価するかっ
        て.でも,わたしは,わたし自身の「ナンセンス」にしか興味がない
        んです.

      そして,ブラック・マウンテン・カレッジでかれの学生だったロバート・
    ラウシェンバーグ [2] のことば:

       −  ぼくの黒と白の作品群は 1950〜51年に制作されました.

         みんなは「焼かれた黒」とか,「ニヒリズム」,「破壊」,そして
       「空虚」といった感想を述べたてましたが,しかし,それらの初期の
    作品は,どれをとっても,否定とかニヒリズムとは何の関係もなかっ
        たのです.それらは,どちらかといえば,「色彩の豊穣を祝って」い
        たようなところがありました.なんだが,それには正当な理由がなけ
        ればならないような気がしていたのです,ぼくがアルバースに学んだ
        ことのように.

         かれは,いつだったか,こんなふうにいったことがあります: 「あ
       る色をほかの色をさしおいて選ぶときには,そこに正当な理由がなけ
    ればならない」.

      「なるほど」と,わたし.

      画家としてのアルバースの評価は,20世紀美術の流れのなかでは,決し
    て一流とはいえないだろうが,ことばでパラフレーズすればこれだけの長
    さになるメッセージを,たった1枚の絵で,はるか東洋の少年の心につた
    えることができたのだから,教育者としてのかれの力量はたいしたものだ
    といえるだろう.

      巻末につけられた年表をみると,年少時代のわたしに強い影響をあたえ
    たもうひとりの画家ジャ クソン・ポロック [3] は,わたしが絵を描きは
    じめた翌年 (1956年) の夏に自動車事故で死んでいる (自殺?).このイン
    タビューがおこなわれてから,四半世紀以上の時間がたっているので,イ
    ンタビュアのディ・アントニオ自身も含めて,登場人物の多くが,すでに
    他界してしまっ た.「現代美術は語る」という訳書 のタイトルは,だか
    ら,ちょっとおかしい.「戦後アメリカ美術の状況回顧のためのタイムマ
    シン」といったほうが正確であろう.

      世紀末もせまったいまの時点からふりかえってみると,20世紀の芸術が
    2つの世界大戦から直接・間接に大きな影響をうけていることがわかる.
    アメリカ戦後美術の場合,それは,数多くの画家たちがヨーロッパの戦乱
    を避けて移住してきたことにともなう間接的影響,つまり一種の文化混合
    現象によるものと考えられる.

      このインタビューのきっかけとなった展覧会のプロデューサー (批評家
    ヘンリー・ゲルドザーラー) は次のように述べている:

       −  過去百年,最上の芸術はフランスで創造された.ポロックはその
       ことを確信していたし,そのように言明したこともあります.

      この証言が正しいとすれば,ポロックのドリップ・ペインティングは,
    かれがひそかに尊敬していたといわれるミロやピカソに対するコンプレッ
    クスの発露だっ たと解釈されたりもするが,ことはそ う単純ではあるま
    い.

      戦後よりやや遅れて現代美術シーンの端にちょっと顔を出し,すぐに途
    中退場したわたし [4]  にとってもっとも興味深かったのは,抽象表現主
    義の代表的画家の一 人バーネット・ニューマン [5] が,大戦後のアメリ
    カ美術の状況について語ったことばである.かれはいう:

       −  おおよそ25年前,わたしにとって,絵画は死んでいました.わた
       しや友人,仲間たちがやっていたようなかたちでのすべての試みが,
       当時の状況,世界の状況のなかでは,まったく死んでいるように見え
       た.そういう意味で絵画は死んでいたのです.

      この指摘が,世紀末を迎えた現在の状況にもほとんどおなじようにあて
    はまるように思われるのは,単なる偶然の一致ではない.

      ニューマンは,戦後絵画の状況を,それが次の3つの形で存在していた
    と分析する.

       −  1つは,花とかチェロを弾く少女とかを描いて,世界を美しく見
    せようとするもの.第2は,キュビスムを基礎として,純粋さを目指
       す絵画,つまり,そこには実際の世界は存在せず,純粋形態の楽園が
       幅をきかせているようなもの.そして,3番目は,現実とかけはなれ
       た幻想の世界を造り上げようとしているシュルレアリストたちの悪あ
    がき.

      抽象表現主義やポップ・アートは,それに,第4そして第5列の絵画を
    つけくわえた.で,なにがどう変わったといえるのだろうか?

      おそらく,なにも変わっていないというのが,正確な答であろう.イン
    タビューの最後にウィレム・デ・クーニング [6] がいっているように:

       −  絵画は死んだということばは,写真や TV あるいは映画との関係
       で,ながいあいだいわれつづけてきました.絵画はもうずうっと死に
    っぱなしなんです.でも,ぼくは,それで不安になったことは一度も
   ありません.

       この居直 りが,なにを背景としているものかはさ だかでないが,し
     かし,何人かの画家たちは不安に悩まされていたにちがいない.ポロッ
     クやアーシル・ゴルキー[7]の自殺はそのあらわれだとわたしは考える.

      哲学者たちの分析によれば,特定の対象に対する「恐怖」とはちがって,
    「不安」とは,特定の対象をもたない漠然とした感情,つまり,なにか得
  体のしれないものに対しての不安なのである.死は,そうした感情を解消
  するもっとも安易な手段のひとつであろう.あるいは,特定の具体的対象
  や奇妙な幻想へのこだわりもまた,一種の麻薬と同じように精神の緊張を
  やわらげる効果をもつかもしれない.

      ニューマンはいう:

       −  わたしが感じていた当時の問題とはこうです.画家にいったい何
       ができるのか?  そして,主題の問題が非常に重要であることがしだ
       いにはっきりしてきました.技法でも,造形性でもなく,見え方でも,
       タブローの表面でもない.そういったことはすべて,特別な意味を失
    っていました.わたしだけでなく,ポロックやその他の仲間たちのと
    っても,問題は,「いったいなにを描くのか?」ということだったの
    です.

         われわれのうちの何人かは,作品から対象となるものすべてを取り
    除きました.怠惰な裸体,花,その他,最終的に,なにかしら物語め
       いたものへ還元されるよ うなものを,です..... 人びとは美しい世
    界を描いていましたが,われわれは,世界は美しくなどないことを認
    識したわけです [8].

         われわれがそれぞれ解明しようとした倫理的な問題とは,「美化す
    べきいったいなにがあるのか?」ということでした.だから,解答の
    きっかけをつかむ唯一の方法は,まず,美化されうる外側の世界とい
    うような観念を捨てることだったのです.ゼロからの出発とわたしが
    いったのはそういう意味です.

      こうした問題認識に,わたしは,「文学的には」かなり深い共感をおぼ
    える.それは,たとえば第2次大戦の敗戦国だった日本やドイツの戦後文
    学を読んだときに感じたのと同じような共感である.たとえば,荒地グル
    ープの代表的詩人・田村隆一の初期詩篇 [9].ついに未完のままに終って
  しまった埴谷雄高の長編小説 [10],あるいはハン ス・エリッヒ・ノサッ
  クの一連の作品 [11].

      しかし,画家としてのわたしは,より近い世代の画家ラウシェンバーグ
    の次のような独白のほうに,もっと心をひかれる:

       −  抽象表現主義とぼく自身の共通点はタッチ (筆触) だけです.ぼ
    くは,かれらのペシミズムとか高邁な理論とかにはまったく興味をも
    ったおぼえがない.よい抽象表現主義者になるためには,自分自身を
    悲観する暇をもたねばならないというわけですが,そんなことは時間
    の浪費だと,いつも思っていました.かれらがやったこと,そして同
    時にぼくがやったことで抽象表現主義風に見えるのは,悲しみや情熱,
    アクション・ペインティングなどを通して,画筆の跡をあらわにした
    ことだけです.

      「なにを描くのか?」

      この種の問いかけには,たいていの場合,いくつもの意図が隠されてい
    る.その意味で,危険な質問だといえるだろう.

      抽象表現主義 の画家たちのおかした過ちは,そうし た危険を承知の上
    で,この問いを自分たち自身に投げかけたことだと思われる.そのとき,
    かれら自身の心のなかには,おそらく「なにも描かない」という答があら
    かじめ用意されていたにちがいないのだが,....

      たとえば, ここに1枚の絵があるとして,人はそ れをどう観るだろう
    か?  ふつうは,まず,そこになにが描かれているのか?という視点から
    はじまる であろう.つまり,タブローの表面に描かれ ている対象がなに
    か? である.それをさらに一歩進めれ ば,なにがどのように描かれてい
    るか? つまり,画家は,どのような意 図で,それをそのように描いたの
    か? ということになる.

      その時点で,鑑賞者の意識はまだ,そこに描かれている対象から離れて
    はいない.画家と対象との関わり,かれと対象との距離,対象に注がれる
    かれの視線 etc が, そこでは問題になる.つまり,鑑賞者は,画家の視
    点を借りて,対象への感情移入の道を探るのである.

      だから,「わたしはなにも描いてはいない」という唐突な画家の発言は,
  そこで,鑑賞者の意識を強引に対象から切り離し,表面的な対象とは無関
  係な,作品の主題へと向かわせる働きをする.そして,わけ知り顔の批評
  家たちが登場し,「時代の潮流」とこれらの作品の主題との関連について,
  もっともらしい解説を試みようとする.たとえば,抽象表現主義の実存主
  義的魅力についてのおしゃべりや,ポップ・アートの政治的意義に関する
  社会学的分析など.

      そうした解釈の背後には,絵とは「なにかを描くものである」というナ
    イーブな前提がある.もちろん,ここでいう「なにか」とは,表面に描か
    れた対象(画題) だけを指すわけではなく,もっと深遠な (?) 主題を含め
  ての話であるが....

      ラウシェンバーグが表明した不快感は,おそらくそのことに由来してい
    よう.かれの発言の趣旨は,画家はただ絵を描いているのであって,絵を
    通じてほかの「なにか」を描こうとしているのではないのだということな
    のである.「タッチ(筆触)」ということばでいいたかったのは,そうした
  ニュアンスだったにちがいない.

      「なにも描かない」はずの絵画が,批評家の言をかりれば,じつは「時
    代の不安」を象徴していたりすることの奇妙さが,近代以降の美術がおち
    いった陥し穴の深さを暗示している.

      「表現」は「理解」と一対になった概念である.そして「理解」には,
    その一方に,好意的理解 (表現されたものが好きだ,あるいはそれを愛す
    る) があり,また,他方にはその反対の,敵意をもった理解 (表現された
    ものが嫌いだ,あるいはそれが憎い) とがある.

      理解という概念についてのこの二値的解釈の図式に異論を唱えたのは,
    ポーランドの SF 作家スタニスラフ・レムであった.かれの代表作「ソラ
    リスの陽のもとに」では,ある惑星を覆った海が高度な知性とある種の超
    能力をそなえたアメーバ状の生物であり,人類がその海との意志疎通を試
    みようとしてついに失敗に終るという物語が,感情を押えた悲劇的な筆致
    で語られている [12].

      それは,作品を「なにか」の表現手段として考えるという近代以降の美
    術の方法論の限界を,ひとつの文学的比喩として具象化した物語だと読め
    ないこともない.

      その意味で,批評家ヒルトン・クレーマーの分析は,やや古風ではある
    が,かなり当たっているといえよう:

       −  抽象表現主義のほんとうの原動力は,絵画をその美学的な本質へ
    と還元させることに向かっていたのです.

         つまり,美術をその純粋な語彙へと還元し,それによって,絵画が
    どう作られたかということ以外の経験が,観る人の心のなかに喚起さ
    れないようにすること,すべての歴史,すべての心理学,そういった
    その他すべてが,そこでは排除されます.

         ある意味できわめて手軽なパラダイスがそこに提示され,われわれ
    は視覚を通じてそこに入ることができ,永遠にそのなかへ逃げこむこ
    とも可能になるのです.

      他の芸術分野,たとえば文学の場合には,芸術それ自身を主題とする作
    品制作の試みがいくつかなされている.娯楽文学のジャンルでいえば,都
    筑道夫の「怪奇小説という 題名の怪奇小説」 (集英社文庫,絶版?) など
    はその一例であろう.純文学の世界でもっとも成功した例としては,晩唐
    の詩人・司空図 (しくう・と) の「二十四詩品」があげられる[13].これ
    は,詩のモードを24種類に分類し,そのそれぞれを四言律詩のかたちに書
    いたもの.つまりメタ・ポエムの形をとった文芸批評である.

      いつの日か,それと似たような形の Meta Painting がだれかの手で描か
    れることがあるのだろうか?

                              ☆    ☆    ☆

      さて,予定の紙数もそろそろ尽きた.わたしのタイム・トラベルもこの
    あたりで終りにしよう.インタビューのなかで,ラウシェンバーグもいっ
    ている:

       −  もしぼくが動かない時計をもっていたとしたら,その時計はどこ
    かおかしいのであって,それこそ修理が必要なんじゃないかな.時間
    に逆らって進もうなんていう気は,ぼくにはないね.


                                   注記

    [1] Josef Albers(1888-1976):  ドイツ生れ.バウハウスに学んだのち,
    1933年渡米.ブラック・マウンテン・カレッジで教える.さまざまな色の
    正方形を重ねあわせた作品で知られる.

    [2] Robert Rauschenberg(1925- ):  1950年代に一連のモノクローム絵画
    を発表.のちに日用品や廃物をとりいれた複合絵画を制作.ポップ・アー
    トへの道を切り開いた.

    [3] Jackson Pollock(1912-1956):   ドリップ・ペインティングの創始者
    として知られる抽象表現主義の代表的画家. 1956年8月16日死亡.

    [4] 1962年 春の毎日現代美術展に出品した「聖シュ ワルツシルド・その
    他」がわたし の20代最後の作品だった.この版画は3 枚だけプリントし
    た.1枚は手元に残してある.あとの2枚は知人の手を経てアメリカのど
    こかにあるはず.その後1895年の「いす」復活までのあいだ,お遊びのつ
    もりで作っていた迷路パズルのシリーズ (サンデー毎日に1973年からおよ
    そ10年間連載) を除けば,わたしはまったく画筆をとっていない.

    [5] Barnett Newman(1905-1970):  カラー・フィールド・ペインティング
    を創始した抽象表現主義の画家.

    [6] Willem de  Kooning(1904-1997):  オランダ生れ.1926年渡米.荒々
    しいタッチの「女」シリーズで知られる.抽象表現主義を代表した一人.

    [7] Arshile Gorky (1904-1948):  アルメニア生れ.1920年アメリカに亡
    命.抽象表現主義の先駆者.1948年7月21日自殺.

    [8] ヘルマン・ヘッセは,その詩「さようなら世界夫人」のなかで次のよ
    うに唄っている:

       世界はがらくたのなかに横たわり
       かつてはとても愛していたのに
       でもぼくらにとって死神はもはや
       それほど恐ろしくはないさ

       さようなら世界夫人よ
       さあまた若くつやつやと身を飾れ
       ぼくらはきみの泣き顔やきみの笑い声には
       もう飽きた

      この唄は70年 代日本の代表的ロックバンド「頭脳警察」のヒットナン
    バーだった.

    [9] この雑文を推敲しているとき,かれの訃報が新聞でつたえられた.し
    かし,わたしの詩は依然として「四千の日と夜」の影響を抜けきれていな
    い.

    [10] 長編小説「死霊」の第1章で登場人物のひとりがつぶやいた「自同律
    の不快」ということばが,わたしの青春を支配したキーワードだった.

    [11] Hans Erich  Nossack (1901-1977): 第2次大戦後の西ドイツ文学界
    をリードしたグルッペ47 の代 表的作家.邦訳は,中篇「影の法廷・ドロ
    テア」が白水社から,短篇集「死神とのインタビュー」が岩波文庫から出
    ている.後者の表題になっている短篇は,学生時代に,いす同人の栩木克
    と一緒に翻訳を試みたのだが,活字にはならなかった.

    [12] 「ソラリスの陽のもとに」 (ハヤカワ SF 文庫).アンドレイ・タル
    コフスキー による映画化「惑星ソラリス」 (1972)  は,主演女優ナタリ
    ア・ボンダルチュクの熱演以外にはわたしの記憶には印象が残っていない
    が,レンタル・ビデオで一見するだけの価値はあるだろう.

    [13] 司空 図 (Sikong  Tu, 837-908): 山西省虞郷の人.字は表聖.33才
    で進士に合格,いくつかの 官職につく. 55才で引退,故郷の中条山に自
    分の墓を作り,そこに客を招いて酒を飲み放歌高吟したと伝えられる.唐
    の帝位を纂奪した朱全忠が高位をもって誘ったが受けず,唐朝最後の哀帝
    が殺されたと聞き,食を絶って死んだ.

      「二十四詩品」は残念ながら邦訳されていない.英訳は "Poetry and
    Prose of Tang and Song" (Panda Books, 1984).原文(評釈つき) は「司
    空図<詩品>解説二種」 (斉魯書社,1980).


SRA KISHIDA Kouichi, k2@sra.co.jp