思考のかたちについて
抽象芸術論のための覚え書 (1997)
- いすグループ展・1997年秋 -
仕事の帰りに立ち寄ったサンフランシスコの本屋で,ニコルソン・
ベイカーのエッセイ集 "The Size of Thoughts" を買った.別にこの
人気作家 (もう少し若いと思ったが,1957年生まれだそうだから,も
うかれも不惑!) が好きだというわけではない.私にとってのアメリ
カ現代純文学はトルーマン・カポーテや,カースン・マカラーズあた
りでほぼ終っていて (いや,このあいだ死んだウィリアム・バロウズ
も忘れちゃいけないが ....),いまは,アンドリュー・ヴァクスやロ
バート・ブロック他のミステリを通じて世相の移り変わりを観察して
いるだけにすぎないのだから.
この本がわたしの目を惹いたのは,「思考にはそれぞれサイズがあ
る」といういかにも気取り屋のベイカーらしい表現に,どこか神経に
引っかかるものがあったからである.「ほとんどの思考はおよそ3フ
ィートの高さしかない.複雑さはといえば,芝苅り機のエンジン,タ
バコのライター,あるいは中身が3色の縞模様になって出てくる歯磨
きチューブ程度であろう」といった書き出しから始めて,ベイカーは,
もっと大きなサイズの思考についての理論 (それは3つの定理から構
成されている) を展開している.で,だからどうだというんだ? と
わたし.サイズをうんぬんする以上,思考にはかたちがなければなら
ないはずだが,思考のかたちについて,ベイカーは何も語っていない.
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わたしたちは,いろいろなもの (あるいはこと) について考えるこ
とができる.タバコについて,コーヒーについて,猫について,ある
いは夢について.しかし,それらの思考がどんなかたちをしているの
かははっきりしない.タバコのことを考えたからといって,わたした
ちの頭蓋骨の中が煙で充満するわけではなく,コーヒーについての思
考が芳香や苦みを持っているわけではない.そして,もちろん,猫に
ついてのわたしの考えが,あなたの顔をひっかいたりすることはない.
夢についての心理学的考察が,夢のようにぼやけたものでないことは,
フロイドその他の人びとの著作を読めばあきらかであろう.
わたしたちは,考えるための道具として,ことばを使うことが多い.
哲学者たちがいっているように,何かを (何かについて) 考えること
と,何かで (何かによって) 考えることとは別である.わたしの場合,
ものを考えるさいにはタバコとコーヒーがほぼ必需品であるが,しか
し,だからといって,わたしはタバコで,あるいはコーヒーで考えて
いるわけではなく,多くの場合,ことばで考えている.すなわち,思
考の結果として,両切りピースの何本かやキりマンジャロの一杯が出
てくるわけではなく,いくつかのことばのつながりがわたしの唇から
発せられるか,紙の上に書きとめられるかである.
ことばで (ことばを使って) 考えるというのは,しかし,ことばを
(ことばについて) 考えるということとは異なる.タバコについて考
えるとき,わたしの心のなかに は,"煙草" と いう2文字 の漢語や,
"タバコ" あるいは "たばこ" というカナ文字のつながり,あるいは
"tobacco", "cigarette", "cigar" といった英単語が浮かんだり消え
たりするが,だからといってわたしは,それらのことばについて考え
ているわけではなく,あくまで,タバコというものそれ自体について
考えているのだ.
もちろん,わたしたちは,ことばについて考えることもできる.言
語学とはそうしたことがらについての人類全体の思考の集積であろう.
しかし,その場合,わたしたちは,"ことば" ということばについて考
えているわけではなく,ことばというものそれ自体について考えてい
るのである.もし前者だとすれば,わたしたちの思考は,ただちに,
"ことばということば"ということばについての思考に変形され,かく
して,永久に抜け出せない無限ループに陥ってしまうであろう.
☆☆☆☆☆
ことばによる思考はおしゃべりと似たようなものだと説く人もいる.
たしかに,プラトンやソクラテス,あるいは孔子といった思想家たち
のアプローチは,対話と思考との類似性をはっきり示している.
しかし,ふつうわたしたちがものを考えるという行為は,わたした
ち自身の心のなかで行なわれる孤独な作業である.つまり,聞き手と
して自分自身だけを想定したおしゃべり (独り言) だと思えばよい.
問題は,この独り言思考にさいして,ことばがどのような役割をはた
すのかである.
対話の場合,考えることと話すことは,ほぼ同時に行なわれている
と考えてもよいであろうが,独りで考えているとき,はたしてわたし
たちは沈黙のおしゃべりを心の中で展開しているのかどうか,そのあ
たりはあまりはっきりしない.思考の結果が,ことばという道具を用
いて発声されたり,書きとめられたりすることはたしかなのだが,考
えている途中はどうかといえば,その中間的な状態における思考が,
ことばというかたちになっているかどうか.そうだともいえるし,そ
うでないともいえる.
たとえば,なにかについて議論をしている場合,相手のことばを聞
いて (あるいは読んで),「うまくはいえないが,それはわたしの考
えとちがう」と感じることがある.その場合,「うまくいえない」わ
たし自身の考えが,まだはっきりしたことばのかたちにはなっていな
いことはあきらかである.
つまり,心の中で行なわれている思考の中間的な状態は,それをこ
とばとして作りだすための原型のようなものではないだろうか.こと
ばとしてはまだ明確なかたちがととのっていないそのアメーバのよう
な思考は,上の例で示したように,外部から与えられたことばがそれ
と一致するかどうかの判定にも利用されるのである.
☆☆☆☆☆
同じことが,絵についてもいえるだろう.
わたしたちは,ことばで考えるのと同様に,ときには絵で考えるこ
ともある.象形文字の典型的な例である漢字の歴史を何千年か遡って,
甲骨や金文に見られるその原始的なかたちを眺めていると,ことばと
絵とが混在化した古代人たちの呪術的な思考のかたちが,おぼろげな
がら想像できるような気がしてくる.「字統」や「文字逍遥」に代表
される白川静先生の諸著作は,その意味で,きわめて刺激的である.
ことばで考えるさいに,わたしたちが心の中でことばを思い浮かべ
るのだとすれば,絵で考えるというのは,心の中で絵を描くことに他
ならないのだが,しかし,わたしたちの多くは,ことばを扱うように
は,絵を扱うことに (とくに絵を描くことに) 慣れていない.
たとえば,わたしはいま,子どもの時に飼っていた一匹の猫のこと
を考えている.どうということもないふつうの雉子虎だったが,滅法
喧嘩に強く,幼くして近隣の猫社会における支配権を確立した.しか
し,その無鉄砲さが災いして,野良犬との決闘に敗れ,2歳になるか
ならぬかで夭折してしまった....
しかし,わたしが心に思い浮かべているのは,そうしたことばによ
るかれの一代記ではなく,さっそうとして庭や室内を駆け回っていた
かれの英姿なのである.
ただし,わたしは具象画家ではないので,かれの肖像デッサンを心
の中で描くことはしない.たとえそう意図したとしても,終戦直後の
ことで,わが家にはカメラなどなかったから,かれの姿を思い出す手
がかりとしての写真が手もとに残っているわけではない.その意味で
いえば,私の心の中でのかれの姿は,はっきりした絵のかたちになっ
てはいない.にもかかわらず,たとえば本屋の店先で猫の写真集を手
にとったとき,そこに写っている何匹かの猫のうち,どれがかれに似
ていて,どれが似ていないかを,わたしは明確に判別することができ
る.
警察で犯罪捜査に用いられるモンタージュ写真の作成プロセスも,
それと同じようなものだろうと思われる.つまり,わたしたちが「絵
で考える」というのは,決して心の中で絵を描く,あるいは絵を思い
浮かべるということではなく,外部から与えられた絵がそれと一致す
るかどうかの判定に用いられる原型イメージを準備する.ただそれだ
けの話なのである.
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ことばもまた絵も,わたしたちが何かを表現するあるいは指示する
ための道具として用いられる.表現あるいは指示される対象は,コー
ヒーやタバコあるいは猫のように,現実に存在し目に見えるものであ
る場合もあるが,ときには,抽象的な概念であったり,実在しない架
空のものであったりもする.
架空のものあるいは人物を表現ないし指示しようとした場合に生じ
る問題は,その表現あるいは指示が,聞き手あるいは鑑賞者によって
どのように受け止められるかである.
たとえば,わたしがニューヨークのもぐり私立探偵バークについて,
かれと娼婦ブルーベルとの哀しい交情について語ったとしよう.その
発言は,ハードボイルド・ミステリの愛好者以外にはまったく通じな
いであろう.これらの人物は,実在の人間ではないが,あるコミュニ
ティに属する人びとの心の中には生きている,そのような存在なので
ある.
よく考えてみると,しかし,実在の人間の場合も,それほど事情は
変わらない.わたしの職業上の知り合いであるコンピュータ・プログ
ラマたちのほとんどは,パウル・クレエやジャクソン・ポロックの名
前を知らないし,いわんや,ほとんど無名であるわれわれの芸術グル
ープの活動などにはまったく関心を持っていない.
もう少し極端な例をあげよう.
昨年の暮れ,還暦を迎えた記念にと,書きためてあったいくつかの
詩を小冊子にまとめた折り,その後記にわたしは次のように書いた:
− これらの詩のうちのいくつかを,古い友人の Iodym-Gratka 氏
に献じたことがある.「野球にたとえてみれば,きみの詩はコント
ロールの悪い変化球みたいなものだね」というのが,かれの感想だ
った.もちろん,わたしには,ビーンボールを投げる意図などなか
ったのだが,かれは,もしかしたらその危険を予知していたのかも
しれない.
ここに名前をあげられたヨジム・グラツカなる人物は,わたしの心
の中にもうかれこれ30年以上棲んでいる「友人」であるが,そのこ
とを知っているのは私だけであるし,かれがいったいどんな人物であ
り,かれの詩についての批評がいかなる意味を持つのかは,私以外の
人間には理解できないであろう.にもかかわらず,あの小詩集の後記
にかれが登場したのはなぜか.その問いに答えるべきは,しかし,読
者たちのほうであって,わたしではない.
☆☆☆☆☆
この夏,北京で半日ほど自由時間ができ,友人の案内で郊外にある
古寺を訪れた.奇松で有名な寺だということで,なるほど,異様な形
をした松の木が何本か,境内のあちこちに生えていた.そのうちの一
本,「九匹の白い竜」と名づけられた老松は,たしかに樹幹が白灰色
で,それを竜の鱗と見れば.根本から九つの太い幹に分かれて空へ伸
びているそのかたちは,まさに天へ翔け登ろうという竜の群れと解釈
できないことはなかった.
竜は,架空の動物ではあるが,中国を中心とする東アジア文化圏で
は,その文学的および造形的イメージはかなり古くから大衆化されて
いて,この松の木にかぎらず,あちこちの観光地で,いくつもの岩や
樹木にその名が冠せられているのを見ることができる.同じように架
空の存在であるにもかかわらず,各地の風景の中に出現するものに,
仏教世界での人気スター観音菩薩があげられよう.
さまざまなかたちで眼前するそれらの竜や観音を見る人びとは,も
ちろん,本物の竜や観音を見たことがあるわけではない.かれらはた
だ,どこかの寺院または美術館あるいは書物でかいま見た竜や観音の
イメージの記憶を心の中で思い浮かべ,それを目の前の風景と重ね合
わせているだけにすぎない.
人びとは,なぜ,見えている風景をそのままの形で受け入れるので
はなく,そこに何かの形をみようとするのだろうか.
心理学者たちのいう認知的不協和の原理によれば,われわれの目は,
見えているものを見るのではなく,心が見ようと意識したものしか見
ない (見えない) のだという.印刷物の校正を原稿執筆者本人に任せ
た場合,他人の目なら簡単に発見できるような間違いがほとんど見過
ごされてしまうのはそのせいだという.
われわれの心は,自分自身をまともな人間として考えるという前提
で,すべての行動を制御するように作られている.まともな精神の持
ち主なら,一目でわかるような漢字のあやまりや英単語のスペリング
ミスあるいは送り仮名の間違いなど犯すはずがない.したがって,た
とえわれわれの目がそうした誤りを物理的に認識したとしても,心は
それを正しいものとしてしか見ないのである.
多くの人びとは,この世界を,それぞれが過去に経験した常識的な
事物の集まりだと考えており,そうした世界観こそがまともな人間の
考えだと信じている.したがって,風景の中に,もし,何か異様なも
のを見いだしたとき,それを,見慣れない異様なものとして扱うより
は,心の中に確立されている世界の構成要素の一つに置き換えた方が
落ち着くのであろう.
同じように,展覧会場を訪れる多くの人びとにとって,まともな絵
とは,それが何か実在する (あるいは) 架空の事物/風景/人物を描い
たように見えるものでなければならず,そのような心の中での置換え
ができないタブローは,内心の不安を掻きたてるだけのやっかいな代
物なのである.
☆☆☆☆☆
ところで,われわれがものを「見る」とは,いったいどういうこと
なのか.
わたしの目の前にいま一脚の椅子が置かれている.わたしがそれを
見ている角度からすると,脚が二本しか見えない.しかし,わたしの
心は,見えない一本または二本の脚を補って,それを三ないし四本脚
の椅子として見るであろう.学校で教わった物理学の原理を思い起こ
すまでもなく,わたしが生きているこの「まともな」世界では,「ま
ともな」椅子は脚が三本または四本でなければ安定しないはずであっ
て,ところでいま目の前にある椅子は倒れもせずにちゃんと立ってい
るからである.
つまり,わたしたちの目は,日常,それが物理的に見ているもので
はなく,わたしたちの心が見ようと考えているものを見ているのであ
る.その意味で,かつて立体派の画家たちが試みた一見異様な具象絵
画は,そうしたわたしたちの心理的な視覚の実態を描いたものとして
は,きわめて妥当な描写法であったといえよう.今年の春亡くなられ
た故・大森荘蔵先生は,著書のなかで,そのことを鋭く指摘されてい
る.
椅子は,一つの物体であり,物理学の教えるところによれば,他の
すべての物体と同じように,分子や原子から構成されている.現代物
理学によれば,またそれらの分子や原子は,粒子であると同時に波動
でもあると考えられるらしい.しかし,わたしたちの肉体に備えられ
た視覚器官では,そうしたレベルでの椅子の姿をとらえることはでき
ない.その次元での椅子の絵を描こうとした場合には,どのような描
法がふさわしいのか.それは鑑賞者にどう受けとられるのか.抽象画
家のあるグループは,明らかにそうした方向を目指しているように見
受けられる.
☆☆☆☆☆
わたしは東京生まれの東京育ちである.だからといって,「東京を
見ている」といえるだろうか.
いま住んでいるアパートの窓からは,ほんの1ブロック先にあるサ
ンシャイン60ビルが見える.父が死んで無人になり,この展覧会の
作品制作のアトリエに使っている実家に帰ると,近くに東京タワーが
そびえ,尊敬する江戸時代の哲学者・荻生徂徠先生の墓所までは自転
車で何分もかからない.それら,わたしがこれまでに見たもの,いま
見ているものは,東京のほんの一部でしかない.
わたしが好む世界の他の都会 (ニューヨークや上海) についても,
また,日本やアメリカや中国などの国・地域についても,事情は変わ
らない.わたしたちは,物理的には二本しか脚の見えない椅子を見る
のと同じようなスタイルで周囲の世界を「見て」いるのである.
「目に見えるものを目に見えるようにしか描かない」というアメリ
カン・スーパーリアリズムの方法論が,逆説的な意味合いで多くの美
術鑑賞者の人気を博した理由はこのあたりにあるものと推測される.
余談だが,この夏,深川・木場公園の東京現代美術館で開催された
ジャスパー・ジョーンズの回顧展は,期待はずれだった.例の星条旗
シリーズはともかくとして,その後の作品は無惨としかいいようがな
かった.ウォホール他のポップ・アーティストたちと比べると,精神
のレベルが一段低いように感じられた.少し前,5月にボストン美術
館で,リヒテンシュタインが中国の風景画を点描風のポップで模倣し
たシリーズの展示を見たが,こちらは強烈なパロディ精神にあふれて
いて,それなりに感動的であったと記憶する.
☆☆☆☆☆
「見る」ということは,単に「目で見る」のではなく,見ようと心
の中で「考えている」ものを見ることなのである.そして,「考える
」という行為は,心の中で実際にことばを使っておしゃべりをすると
か,何かの絵を描くとかいうのではなく,ことばや絵やときには音ま
でを含めた一種の記号のようなものを組み合わせて,外界から与えら
れることばや絵や音に対して,ある種の判断や選択を行なうための準
備を整えることに他ならない.
わたしたちの心の中で行なわれているその記号プロセスの全体的な
かたちは,わたしたちには見えない.それは,コーヒーやタバコや猫
や椅子や東京や日本が見えないのと同じ意味で見えないのである.
唯識宗の仏典が説くところにしたがえば,わたしたちが考えるさい
の道具として使われるそれらの記号体系は,わたしたちの五感や意識
の下に位置するアラヤ識のレベルに存在するのであろう.
その無意識レベルに直接的な接触を試みることは,無謀でもあるし,
また危険であろう.シュールレアリストたちが今世紀前半に行なった
数々の実験の失敗や,その後の抽象表現派の巨匠たちの挫折 (たとえ
ば,ジャクソン・ポロックの壮途半ばでの自殺) は,そのことをはっ
きりと示している.
安全第一の慎重派であるわたし個人の方法論は,いわば,「間接話
法」とでも呼ぶことができるだろう.
詩や小説などの言語芸術の場合には,日常生活のなかで使われてい
ることばがときたま見せる油断やすきを突いて,ことばの持つ裏側の
特性や意味を引き出すことをもっぱら狙うことにしている.
絵やその他の造形芸術においては,意識的に「かたちを自分で造る」
ことを避け,コラージュ,ドリッピング,ランダム化その他,今世紀に
開拓されたさまざまな技法を組み合わせて,自然に生まれてくる「かた
ち」を,自分のアラヤ識感覚を用いて選択し浄化するというやり方であ
る.
さすがに, 30年近くそうした造形上の我慢を重ねていると,ときには
直接話法の誘惑にかられないこともないが,自分の精神が破壊されるこ
とへの恐怖感の方がまだ強く,最後の一線でようやく踏みとどまってい
るというのが,正直な告白である.
KISHIDA Kouichi,
k2@sra.co.jp