記号論の抜け穴

                抽象芸術論のための覚書 (1996)

                 - いすグループ展・1996年秋 -

  春秋戦国時代に舌先三寸で世の中を渡りあるいていた諸子百家の1
人に「白い馬は馬で はない」という有名な一言を残 した公孫竜がい
る.この命題は,ふつう,典型的な詭弁だと誤解されているが,実は
きわめて現代的な認知意味論と相通ずるニュアンスを含んでいる.

  公孫竜が属する名家すなわち哲学的唯名論の立場は,あらゆる普遍
的概念の実在を認めないという原則に立脚している.したがって,か
れにとって「白」という普遍概念は存在しない.認められるのはただ
「白い花」「白い壁」「白い紙」といった特定の現象だけである.し
たがって,「白い馬」といういい方は,「白」という色彩を認識しよ
うとする主体の意識が,仮に「馬」というメディアを借りて表現され
たただけのものにすぎない.一方,ただ単に「馬」といった場合は,
形としての馬を認識しようという意識が表現されている.色の認識と
形の認識とは,主体の意識において明らかに異なるというのが,かれ
の主張のポイントだったのである.

  もし,芸術作品が何らかの対象 (そしてその属性) を記号化したモ
デルつまりは「名」であるとすれば,それが対象すなわち「実」を正
確に表現しているか否かは大きな問題であろう.

  井筒俊彦が,「意識と本質」 (岩波文庫) で指摘しているように,
およそ,意識はつねに「何かへの意識」である.つまり,意識はそれ
が成立する以前に,本能的な対象の本質把握を必要としている.たと
えば,ここに一輪の花があるとして,われわれがそれを花として意識
するとき,われわれの心の中には,すでに花とは何か (花の本質) に
ついての理解が形成されている.そうした本質把握は,実は,われわ
れが使う言語の意味分節機能に大きく依存している.

  アジア文化圏においては,言語の持つこの魔術的な意味分節化機能
を虚妄であるとする考え方が,すでに, 一千年以上も前から広く流布
されてきた.たとえば,数ある仏教教典の中で, もっとも形而上学的
なニュアンスが強いといわれる「大乗起信論」は,次のように説いて
いる:

    一切の言説は仮名にして,実なく,ただ妄念に随 えるのみ....
  (すべての言語表現はただ仮に立てられた名前にすぎず,別にそれ
  ぞれの名前に対応する「実」すなわち本質があるわけではない.た
  だ,われわれの意識または無意識の働きによって,いろいろなこと
  ばが浮かんでは消えしているだけなのだ....)

  言語表現 (絵画も含めて) とは,それ自体は何の意味も持たない記
号の集まりにすぎない.そうした記号の集合に,それでは,どうした
ら意味を与えることができるか?  常識的には,それぞれの記号と,
現実世界あるいは心象世界に浮遊しているモノたちとの対応づけによ
って,それらに意味を与えるという方法が考えられるが,恐ろしいこ
とに,そうした意味づけが無効であることが,最近,論理学的に証明
されてしまった. (詳しい説明は,たとえば, G. レイコフ「認知意
味論」紀伊国屋書店の第15章「パトナムの定理」参照).

  それでは,意味分節化のツールとしての言語を放棄して,素手で世
界に立ち向かった時,われわれの目の前に出現するであろう (いわば
言語以前の無分節的な) 本質とは何であろうか?

  イスラム哲学によれば,「本質」には,2つの種類があり,それら
はお互いにはっ きり区別されなければならない.

  第1種の本質は,「特殊的意味での本質 (マーヒーヤ) で,これは,
「それは何か?」という問いへの答えを指す.つまり,X を X たらし
めているもの,X という概念に相当する.これに対して,第2種の本
質は「一般的意味での本質 (フウィーヤ)」であって,その意味すると
ころは,「これであること」,つまり 個々の具体的な X の即物的リ
アリティのことである.

  これら2種類の「本質」に対してどのような態度をとるかが問題だ
が,世の大勢は,マーヒーヤの実在を信じるリアリストたちで占めら
れていて,公孫竜やその流れを組む現代の唯名論 哲学者ネルソン・
グッドマン,ひそかにかれらを尊敬している私などは,小数派に属す
る.しかし,芸術の分野に目を向ければ,「松のことは松に聞け!」
と吐き捨てた松尾芭蕉を初めとして,意外に数多くのフウィーヤ派が
発見される.

  イスラム哲学の歴史の中でもっとも過激な問題提起を行なったこと
で知られるアヴィセンナは,次のような唯名論的なテーゼ (もちろん
唯一神アッラーを信 じていたかれがノミナリストで あるはずはない
が) を残している:

    何かがあることと,何かが何かであることとは,別である.初め
  に存在があり,それが自己を限定し特殊化し個別化して,具体的な
  ものとして立ちあらわれる.本質とは,その際の自己分節化の単な
  る指標であるにすぎない.ところで,ものがものでありながら,し
  かも現実には存在していない状態を指すタビーア (本性) という概
  念が考えられる.それは,いわば純粋本質である.それを追求しよ
  う.

  自殺する直前,ニューヨークの街角で深夜,泥酔して街路樹により
かかりながらジャクソン・ポロックがつぶやいたといわれる捨てぜり
ふ: 「私の作品は Art of  Being ではなく, Art of Becoming を目
指しているのだ」は,あきらかにこのライン上に位置していると考え
られる.記号からその表現機能を取り去った時に何が残るか.唯名論
者グッドマンの手になる記号論の鋭い分析:
     "Language  of  Art" (Hacket Publishing, 1976)
をのぞいてみたが,残念ながら,その問題について,直接には何も触
れられてはいなかった.


SRA KISHIDA Kouichi, k2@sra.co.jp