時の遅れ

       抽象芸術論のための覚書 (1960 & 1995)

             - いすグループ展・1995年秋 -

1. 不朽という幻影 (1960)

  近代芸術の創始者のひとりであるモネは,晩年,ぼんやり庭先にす
わって,一日中池の睡蓮ばかりながめていたという.死ぬまぎわのセ
ザンヌは,ひどい神経衰弱に悩まされていて,階段から転げ落ちそう
になったとき,横からささえようとした手をふりはらい,「おためご
かしはよせ!」などと口走ったりした.ゴッホは発狂し,結局オーヴ
ェルの丘でピストル自殺をとげた.そのゴッホから耳をおくられたゴ
ーギャンのタヒチにおける孤独な死.それが自殺でなかったとはだれ
にもいえない.

  これらの一連の現象の影には,何か意味深長なメッセージが隠され
ているにちがいない.ゴッホは自殺した.しかし,その結果かれの芸
術は不朽のものになったではないか?  とても自殺などできそうにな
いふやけた顔をした多くの画家や美術愛好家たちは,まるで女学生の
ようないじらしい憧れを抱いてこれらの先駆者たちの生涯を回顧する.

  近代のいわゆる芸術家たちをささえていたこの「不朽」という観念
はいったい何だったのか?

  かれらのほとんどが社会的には不遇であったことが知られている.
そうした,世間から見捨てられたみじめな境遇にあって,なお「絵を
描くことによってようやく生きのびている」などとつぶやいていた一
見求道者風の姿勢.それとはうらはらな自殺.「不朽」とは所詮ひと
つの幻影にすぎなかったのではないか?

  わたしたちのもっている死のイメージが幽霊やお化けであるのに対
して,西洋のそれは屍体である.が,近代芸術家たちは,死後もなお,
この世にとどまることを望んだのであった.かくした,ヨーロッパに
幽霊が出る.よれよれの上着のポケットに「進みすぎた」懐中時計を
かくしてうろつきまわる幽霊が.かれらは,そのうちに社会が自分た
ちに追いついてくるものと,あくまで信じこんでいる.

  そういうかれらの目がすでに神を見失っている以上,熱っぽいまな
ざしでかれらがみつめていたものは,作品に投影された自分自身の姿
以外の何ものでもない.無精ひげをはやしたナルシス.「美的享受と
は客観化された自己享受である」というあるドイツ美学者のことばは,
だから,粗雑ではあるが正しい.客観化とは不朽化の謂である.近代
以降,美術の流れの底にひそんでいたのは,そうした激しい自己証明
の欲望であった.

  印象派による光の分解から,立体派,表現派などを経て現在の無政
府状態にいたるヨーロッパ美術の方法論的変遷は,それを裏書きする.
不朽になるためには個性的でなければならない.独創的な方法,新し
い技法を求めて,美術家たちは自然のフォルムの徹底的な分解とその
再構成へ向かう.それは,多くの模倣者たちのあいだに,新奇なもの
への憧れ,一種のエキゾティズムとでもいうべき動向をひきおこした.
散歩のついでに銀座あたりの画廊をのぞいて見たまえ.立体派からア
ンフォルメルにいたるあらゆる技法がひとつの画面に雑居しているの
を,きみは見出すだろう.今日,多くの画家たちにとって,Composi-
 tion とは Confusion の同義語に他ならない.

  1921年,バウハウスでの講義をはじめるにあたって,パウル・クレ
エは,こうした過度の分析主義的傾向に対してひかえめな警告を発し
ている.しかし,「作品はフォルムだけで成り立っているのではない
」というかれのことばに耳を貸す人間はほとんどいなかった.「1は
1であり,1でしかない」とクレエはいいたかったのだろうが,時代
は1をさらに細分化する仕事に熱中していたのである.

  ダダイスムからシュールレアリスム,さらに今日のアンフォルメル
へとつながる一連の運動に,近代美術の主流とは異質な何かを見出そ
うとしている人々もいる.しかし,「独創的ではない根源的なもの」
を求めるかれらの態度が,近代美術の一般的潮流に対する単なる反動
でしかないということが,まさに悲劇的なのだ.対立物としての近代
美術が存在しなければ,その裏返しとしてのそれらの運動自体が意味
を失ってしまう.「これらの作品は,およそどんな儀式も,寺も,公
私の住居もまったくないが,今日,その聖壇にいたる帳であり敷居な
のである」という,あるアンフォルメルお抱え評論家の文章に,わた
したちは「不朽」という幻影がいまなおヨーロッパに大きな黒い影を
投げかけているのを知ることができる.

  W. ハウゼンシュ タインはその著書の中で,「今日の芸術家はしば
らくのあいだ絵筆や彫刻刀を捨ててただひたすら合掌すべきではない
か?」という問いを提出している.そこまで突きつめた気持ちには一
片の同情を禁じえないが,しかし,この問いかけに対して,「いやそ
んな必要はない」と自身を持って答えられる人間が,はたして何人い
るだろうか?   アメリカ抽象表現派の2人の 巨匠,ポロックとゴル
キィのあいつぐ自殺は,きわめて暗示的である.

  「不朽」の幻想を抱くことは危険である.不毛なナルシシスムの行
きつく先は自殺以外にない.それともピカソみたいに生き恥をさらす
か?  さすがにクレエあたりはこの危険に気づいていたようであった.
かれの墓碑銘には,日記の一節からとった次のような文章が刻まれて
いる:

  「単なる地上的なことばでは私は理解されないだろう.なぜなら,
  わたしは,まだ生 まれてこないものたちとも,そ して死者たちと
  も,同じように仲よ くやっているから....つまり,わたしは,多
  少なりとも,創造の中心へふつう以上に近づいているわけなのだ.
  けれどもまだ,十分に近いというのではなく,なおはるかに遠いと
  ころにいるのだが....」
                                                (東大学生新聞)

2. 表現へのとらわれについて (1995)

  禅的認識論を語る さいにいつも引用される Qing-Yuan-Wei-Xin(青
原惟信) 和尚の有名な述懐:

  「私がまだ参禅する以前,山は山,水は水にしか見えなかった.禅
  の道に入り,修行を積んで行くうちに,もはや山は山でなく,水は
  もはや水でなくなった.....  しかし,その後さらに座禅を続け,
  一層深い悟りの境地に入ったいま,ふたたび山は山として,水は水
  として私の眼前にある」

  このことばをむりやり芸術方法論にこじつけて解釈すれば,最初の
段階は素朴な写実主義に,そして第2段階は印象派以降のさまざまな
近代絵画の諸流派に,それぞれ対応づけることができるだろう.

  「美術は,目に見えるものをそのまま再現するのではなく,見えな
  いものを見えるようにするのだ.グラフィック・アートは,ほんら
  い,抽象に適している.それは,暗いおとぎばなしに似た空想的な
  性格を持っているのと同時に,自らをきわめて正確に表現する.グ
  ラフィックな仕事がしだいに純粋になり,表現の基礎になっている
  形の要素に比重が加わってくると,目に見える事物の写実的な描写
  はしだいに不完全なものになる....」

  1920年に発表されたエッセイ「創造者の告白」の冒頭に記されたこ
の文章で,パウル・クレエがマニフェストした抽象的グラフィック・
アートの立場は,他の多くの現代芸術家たちと同じく,明らかに,ま
だ禅的な悟りの第2段階にとどまっており,そこから足を踏みだしえ
ていない.

  その後の創作活 動の中で,ときには,無意識の飛 躍を試みながら
も,結局のところクレエは,「山でない山あるいは水でない水」を表
現するという現代芸術固有の陥穽から抜け出せなかったように思われ
る.それは,グラフィック・アーティストとしてはあまりに文学的に
過ぎたかれの姿勢が影響しているせいでもあろう.

  絵画を構成する点や線あるいは色彩といった要素に,記号 (ソシュ
ールのいうシニフィアン) としての役割を与え,独自の表現体系を組
み立てるというのが,クレエの基本的なアプローチであった.そうし
て描かれたタブローが,観賞者の内面にある常識的なシニフィアンの
体系とのあいだで,微妙な摩擦を引きおこし,ある種の感動をもたら
すことが,魔術的に計算されている.

  もうひとつ,クレエのことばを引用しよう.1924年の冬,イエナ美
術協会での講演で,か れは画家の立場を1本の樹木にたとえている.
自然や人生についての画家の認識は,樹の根の部分にあたる.

  「そこから樹液が上がってきて,かれの身体を,目を通り抜けて行
  く.そして,天 空に向かって,自由にさまざまな 方向に梢を伸ば
  す.それが作品なのだ...」

  樹の梢が,その根と同じ形でなければならないとは,だれも考えな
いだろうという一言で,素朴な写実主義はあっさりと否定されてしま
う.

  「樹幹としての画家の役割は,ただ,下から流れてきたものを上に
  つたえるだけ である.かれはだれかに奉仕す るわけでもなく,ま
  た,だれかを支配するわけでもない.単なる仲介者にすぎない.梢
  の美しさはかれ自身のものではないのだから...」

  スマートな比喩だといえよう.しかし,この魔法使いの樹が,その
傍らに立ち,梢の美しさを賛美する観賞者の存在を前提としているこ
とに注意しよう.いかなる魔術も.舞台と観客なしには成り立ちえな
い.禅の老師たちが指摘しているのは,このウィークポイントである.

  記号は表現のためにある.表現とは意味である.では,意味とは何
か?

  記号 (シニフィアン) をそれが指示する対象 (シニフィエ) と1対1
に対応づけることによって意味を定義しようとする試みが不毛である
ことは,ソシュールが予感した通り,アメリカの分析哲学者パトナム
によってみごとに,論理学的に証明 (!) されてしまった.

  山も水も,けっしてわれわれに見られるために存在しているわけで
はない.それを山 (または水) として,あるいはそうでないものとし
て「見る」のは,こちら側の 心の底に,「私はそう見た!」というこ
とを,自分を含めた他者に向かって表現し伝達しようという意識がひ
そんでいるからに他ならない,その表現がほんらい無意味であること
に気づかないまま.

  もし,見る主体としての私が存在しなかったとして,いま見られて
いる対象はそこに存在しうるか?   哲学的実在論と唯名論とを峻別す
るこの問いに対する答えはしばらく保留するとして,絵画作品は作者
なしに,つまり作者の表現意志と無関係に,成り立ちうるであろうか?

  ロカルノの墓地の下からのクレエの答えは おそらく「ノー」であり,
私の答えはもちろん「イエス」である.

  時代は世紀末に向かって急角度の坂を転げ落ちはじめた.われわれ
の世紀が生んだ最高の詩的メタファ「相対性理論」によれば,主体の
速度が限界に近づくにつれて時間は遅れ出す.そして,ときには,映
画フィルムを逆送りしているかのように,ゆるやかに,過去に向かっ
て逆流するのである.

  美術の世界におけるこの「時の遅れ」現象は,たとえば,「見える
ものを見えるようにしか描かない」という手法に固執するアメリカン
・スーパーリアリズムや,その発展型として,日常生活のなかの常識
的なイメージをそのままタブローに貼りつける形のポップ・アート諸
派に代表される.「陳腐さ」の中にこそ美があるという信念を追求し,
狂気のパフォーマンスを展開し続けている鬼才ジェフ・クーンズもそ
の系列に入れておいたほうがよいだろう.オートバイの修理作業をも
って座禅の代用にしたりする若いアメリカ人たちの思いつきは,しか
し,それなりに微笑えましく眺められる.

  なぜだろうか?


SRA KISHIDA Kouichi, k2@sra.co.jp