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時間について
― 抽象芸術論覚書 2003 −
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1. 意識の流れ
今年の現代詩人会H氏賞を受賞した河津聖恵という詩人の名前で
インターネット上を検索したら,ある Web Magazine に,かの女が
寄稿した「詩と時間 − 北村太郎を中心に」と題するエッセイが見
つかった.
- ところで,詩というものも「時間芸術」のひとつである.
この文章がちょっと引っかかった.「時間芸術」とはいったい何を
意味するのか.
- 短歌や俳句といった伝統詩型が,定型という空間的な安定性を
あらかじめ与えられているのに対し,詩にはそれが生ずる空間
は与件としては全くないといっていい.あるいはもしかしたら,
それが発生する場所は空間を越えて世界そのものであり,世界
は詩の一行が始まるまでは存在しないという言い方さえあなが
ち極論にはきこえない.
...........
私たち自身の意識が時間なのだとすれば,私たちは時間につい
てかたりきることは決してできない.
...........
日常の言葉が,世界を空間的に分割する「観念」であるとすれ
ば,詩はそれを時間の流れへ戻すのであると.もちろんそうす
ると一般的に無時間的なものと感じられるポエジーというもの
も,実は本来は時間的なものということになるだろう.
省略した部分にベルグソンの名前がでてきたりするので,筆者が
いいたいところはおぼろげに理解できるような気はするのだが,し
かし,まだ「時間芸術」とは何かがはっきりしない.いらいらしな
がら先へ読み進む.
- 私が初めて北村太郎の詩に触れたのは,あの「朝の鏡」でだっ
た.どこかに引用されていたものを読んだのだが,これを読む
誰しもそうだろうが,冒頭からいきなり自分の知覚に深い亀裂
が走るのを感じた.その有名な三行を引用してみる.
朝の水が一滴,ほそい剃刀の
刃のうえに光って,落ちる ── それが
一生というものか.不思議だ.
北村太郎の魅惑の本質は,「持続性」とみずからよんだ「意識
の流れ」としての「時間」の方にあるだろう.
...........
時間とは,直接的には私たちの意識の流れであるのだから,そ
の意識の実質である言葉の流れ(あるいは差異のうごき)に,
有用性や功利性から離れたかたちで,つまり最も無償に触れる
ことのできる詩というジャンルにおいては,実は時間でありつ
づけようとすることこそが,詩に詩としてのアウラをまとわせ
ていくのではないか,と私は思っている.
いいたいことはわからないでもないが,これらの作品に表現され
た「時間」のイメージは,きわめて日常的なコンテクストでのわれ
われの「時間についての感覚」であって,わざわざそれを「意識の
流れ」と気取ったいい方で呼ぶにはあたらないのではないだろうか.
わたしの記憶に残っている北村の別の作品の断片:
部屋に入って,少したって
レモンがあるのに
気づく 痛みがあって
やがて傷を見つける それは
おそろしいことだ 時間は
どの部分も遅れている
についても同じように感じる.かれの詩は,だれかが「洋風雑貨店」
と評した初期の作品群と,「なぜか和風小間物屋になったみたい」
と評された晩年の作品群とでは,あきらかに読者に与える感じがち
がっていて,わたしは個人的には後者のほうが好みである.
同じ荒地グループの作品の中では,田村隆一の処女詩集「四千の
日と夜」におさめられた「幻を見る人」の第2篇での時間の逆転の
描写のほうが,「意識の流れ」というものに対する恐怖感を強く感
じさせるように思う.そして,その詩集の巻末に置かれた「三つの
声」の最後のフレーズ:
その声をきいて
ついにわたしは母を産むであろう
その声をきいて
われわれの屍体は禿鷹を襲うであろう
その声をきいて
母は死を産むであろう
わたしの心にとっての現代詩の衝撃はこのフレーズを目にしたとき
が最初であった.
「意識の流れ」ということを最初にいいだしたのはたしかジェイム
ス・ジョイスだったと思うが,しかし,かれの作品は難解であまりに
も読みにくい.かつて「フィネガンズ・ウェイク」の翻訳がでたので
挑戦してみたのだが,途中でギブアップした.
河津のエッセイは,その反対で,単に日常的な時間の経過について
の感覚を「意識の流れ」と表現しているだけのことで,あまり「詩的」
な感動を感じられない.同じ時間を扱ったエッセイとしては,藤井良
治君の恩師である故・大森荘蔵先生の「語り存在としての過去」とい
う問題認識のほうが,わたしにはより刺激的であった.
河津のH氏賞受賞作品「アリア,この夜の裸体のために」のなかに,
次のようなフレーズがある:
光っているものがある
駅から駅へ速度に消される名 の表示板の
白いシニフィアンからシニフィアンまでの夜の間隙
(また静かな渦を巻いて,駅名は液体となる
出会い,過ぎ去る,たがいの渦のまま)
(熱海,シズオカ,あるいは a ,ととびちるのがみえ)
ここでの「駅名は液体となる」という比喩的な表現は,ジョージ・
レイコフが指摘している「未来から過去に向かって経過してゆく時間」
に頬をなぶらせる意識の形容として,それなりによくできたフレーズ
だとは思うが,しかし,それ以上でも以下でもない.
東海道新幹線下りの車窓を流れて行く夜の風景の中に瞬間的に浮かび
上がっては後ろに飛び去ってゆく駅名表示の列.「EKI-mei が EKI-tai
になる」という語呂合わせまでをまさか作者は意識したのではないだろ
うが,...
a は Kakegawa の a か,それとも Hamamatsu の a か.そんなこと
を読者にふと考えさせる,そのあたりが,ある種の「詩日記」ふうに書
かれたこの作品のよさであり,また限界なのであろう.
2. 詩と絵画の結婚
今年5月のアメリカ出張の折,サンフランシスコ近代美術館 (SFMONA)
で "A Passion for Paul Klee" と題された特別展示を観る機会があっ
た.
"Djerassi Collection" と呼ばれる 140 点ほどのエッチング,リト
グラフ,水彩画など,主に小さな作品のコレクションで,なかなか見
ごたえのある展示だった.
クレエの作風は,抽象絵画としては親しみやすく,さまざまな記号や
図形を画面に配置して,ときにはきわめて文学的に,つまりなにか架空
の物語あるいは詩篇の挿絵風に作品を仕上げているので,アメリカでも
人気があるらしく,会場はかなり混雑していた.
小さな画面ではあるが,ほとんどの作品が,画面上の記号や色彩の配
列によって鑑賞者の視線の動きをある道筋に沿ってコントロール(誘導)
するように描かれている.それは,そうした視線の動きを通じて,2次
元の空間の上にある種の時間の流れを作り出すかのようなメカニズムだ
ともいえる.
それらの作品を眺めながら,河津聖恵のエッセイにあった「詩という
ものも『時間芸術』のひとつである」というフレーズをふと思い出した.
「時間芸術」という表現にもっともあてはまるのは,詩よりもむしろ
音楽であろう.音楽家たちは,一様に直線的に経過する時間軸の上に感
情的な起伏や濃淡,すなわち複雑な空間を描き出そうとして,いろいろ
苦労しているのではなかろうか.音楽家の家庭に育ち,彼自身もまた奥
さんも音楽の素養があったクレエの作風が,そうした音楽の技法に影響
を受けていただろうことは想像に難くない.
詩や小説も,つきつめれば1次元の文字の連なり(朗読の場合には音
楽と同じく音のつながり)が時間経過の軸に平行しているのではあるが,
印刷形態の場合には2次元(書物の厚みを考えれば2.5ないし3次元) の
空間的メディアだと考えられる.
そうした空間的メディアをどのようにして時間に変形させるか,クレ
エの手法はやや「策士策に溺れる」といった感がなきにしもあらずだと,
今度の展覧会を観て思った..
クレエには,絵画と詩とを直接に合体させることを試みた作品がある.
「いつしか夜の灰色から浮かび上がる」と題された水彩画だ.
画面のほぼ中央に灰色の水平な帯があり,その上部もまた下部も色と
りどりに塗られた格子状に分割されていて,いくつかの格子の中には細
い線で書かれたアルファベット文字が見える.そして,画面の上にはち
ょっとした空白があり,そこには手書き文字で,次のような詩らしきも
のが書かれている:
Einst dem Grau いつしか夜の
der Nacht 灰色から
entraucht. 浮かび上がる.
Dann schwer やがて重たく
und teuer また親しげに
und stark 火の力強さで
vom Feuer. 神に満たされた
Abends voll von Gott 夕暮れが
und gebeugt. 身を屈める.
Nun atherlings いまエーテルのような
vom Blau 青色に
umschauert, 降りこめられ
entschwebt 万年雪の頂を
uber Firnen 越えて
zu 叡智の星々へと
klugen Gestirnen. 昇ってゆく.
画面の格子の中に書き込まれた文字は,よく眺めてみると,この詩
をあらわしているのであった.主語のない不思議なフレーズの連なり
だが,それなりの神秘的な雰囲気は醸し出しているように感じられる.
作者クレエの意図はどの辺にあったのだろうか.
鑑賞者の視線は,まず自然に画面中央の灰色の帯にひきつけられる
であろう.その後,色とりどりの格子模様の上をランダムにさまよい
歩き,ふと上部の余白に書きこまれた「詩」に気づく.そして,あら
ためて,格子の上に書かれた文字を「詩」のラインに沿ってたどりな
おすわけだが,そうした鑑賞シナリオ(視線の動きのガイドライン)
が,はたしてこの作品の場合,有効に働いているだろうか?
わたしにはいささか疑問だと感じられる.2次元空間(格子をいろ
どる色彩の明度がもたらす仮想的な深さを含めると擬似2.5次元空間)
としてのタブローに1次元の文字のつながりをもちいて,ある種の時
間を導入しようというのは,所詮無理な試みではなかったかと思われ
る.むしろ,「空間は時間を含む」という自然な直感にしたがって画
面構成を考えたほうがよかったのではなかろうか.
3. 三十一文字のなかの時空
野口武彦のエッセイ「花と紅葉のありか − 宣長歌論の詩学的考察」
(「江戸百鬼夜行」ぺりかん社,所収)を興味深く読んだ.これは,
本居宣長が新古今集の注釈書「美濃家包(みののいえづと)」におい
て,藤原定家の作品:
見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫家の秋の夕暮
を改作したのに対して,それが手ひどい改悪でしかないことを,統辞
論および意味論の両面から丁寧に分析したものである.
新古今集では,「夕暮れ」を詠った西行・寂蓮・定家の作品をなら
べて「三夕」と呼んでいる:
西行:心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ
寂蓮:寂しさはその色としもなかりけり槙立つ山の秋の夕暮れ
定家:見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ
本居宣長が最初の二首は「めでたし」の一言でかたづけたのに,な
ぜ定家の作品にだけ難癖をつけ,やらずもがなの改変(改悪):
見わたせば花も紅葉も難波潟あしのまろやの秋の夕暮
をほどこしたのか.
その最大の理由は,おそらく,野口武彦が分析したように,定家の
作品の構文が,他の二首と違って,多義的な解釈を許すようになって
いることに,気づかなかったからであろう.
一般に,この歌は:
浦の苫屋の秋の夕暮れには,いくら見渡しても,花も紅葉も見
あたらなかった
という倒置的な構文を持つものとして読まれている.しかし,その解
釈では,あまりにあたりまえすぎて,詩情もなにもあったものではな
く,宣長がついおせっかいな改作を試みようとした気持ちもわからな
いではない.折口信夫が「新古今前後」でこの歌を「抽象的なごく平
凡な哲理に近いもの」と断じ,「何か思想的内容があるかのように見
せかけている」と酷評しているのも,同じ解釈にしたがっているから
であろう.小林秀雄の「西行」における批評も同じ線上に位置
している.
俗説では,定家のこの作品は,源氏物語「明石の巻」を下敷きにし
たものだといわれている.「源氏」における描写:
いとさしも聞えぬ物の音だに,折からこそはまさるものなるを,
はるばると物めとどこほりなき海面なるに,なかなか春秋の花
紅葉のさかりなるよりも,ただそこはかとなうしげれる陰ども,
なまめかしきに,水鶏のうちたたきたるは,誰が門さしてとあ
はれにおぼゆ.
の季節は卯月,すなわち初夏である.もしこの俗説が真だったとした
ら,定家はなぜ季節を秋に変えてしまったのか.
野口武彦は,定家の作品のシンタクス分析によって,通常の読みと
は異なるもうひとつ別の解釈が成り立つ可能性を指摘している.すな
わち,問題の一首には,三十一文字の完結した詩的言述よりも下位の
レイヤーに,初句「見わたせば」を別として,二つの用言句が含まれ
ているというのである.具体的に示すと:
見ワタセバ
[花モ紅葉モナシ
+
(サレド) 浦ノ苫屋ノ秋ノ夕暮 (ハアリ)]
ケリ
という「読み」である.
そうした解釈が可能になる背景には,「なかりけり」という句を心
としてこの歌が持っている意味論的構造がある.
詩的言述における主体(われ)には次の3種類がある:
(1) その詩を書いた作者自身
(2) 作品に表現された行為を語る主体 (作品の主人公)
(3) 詩的言述の背後に潜在している主体
辞書に出ている「詩」の定義:「文学の形式.一定の韻律などを有
し,美的感動を凝縮して表現したもの」は,ふつう,上記(1) の意味
でとらえられている.本居宣長は,その歌論で,上記の (2)と(3) を
(1) と区別し,「歌主」(歌の主人公)と定義している.
三夕における西行および寂蓮の作品は,この分類にしたがえば,明
らかに (1)である.「あはれ」や「さびしさ」は作者自身の心情を指
しており,それを生み出す契機となった「鴫立つ沢」や「槙立つ山」
は作者の眼前に展開された外的状景である.
では,定家の「花紅葉」はどうか.
国歌大観には,「花も紅葉も」という連辞を詠みこんだ和歌は,ぜ
んぶで17首あるそうだが,定家の作品以外はすべて上記 (1)に分類
されるようだ.たとえば,後撰集・読人不知の:
降る雪は消えでもしばしとまらなむ花も紅葉も枝になき頃
この歌における「花も紅葉も」は,過去に作者自身が目にして記憶
にとどめている花や紅葉を指している.そうした記憶への指向と眼前
の雪との対照が,この歌における意味的作用のポイントなのである.
もう少し野口の推論に耳を傾けてみよう:
「見わたせば」の歌は,これとはまったく違っている.定家
が詠ずる「花」と「紅葉」は,いま眼の前に存在しない花と紅
葉ではない.歌われているのは,『花と紅葉の非在』である.
「なかりけり」と,その存在を否定された花と紅葉のありかは
どこにあるのだろうか. [宣長のいう] 歌主の心象風景の中に
しかない.われわれがこの歌の中の「花」と「紅葉」から喚起
されるのは,この言葉自体の詩的心象への変貌である.この心
象は,かぎりなく華麗な色彩感を持っている.そして,それは
寂蓮法師だったら「その色としもな」しとでもいうであろうよ
うな「秋の夕暮」の ---- 秋の夕暮ではなく,「秋の夕暮」と
いう言葉の ---- 色彩とたがいに補色をなし,映発しあって,
言述の表層から姿を消した「あはれ」をあざやかな感覚実体に
化するのである.
宣長歌論が「新古今集」の精髄に迫りながら,ついになしえなかった
作業は,こうした『純粋詩語』の析出であった.
俳句・和歌などの短詩型文学は,どちらかといえばわたしの個人的な
趣味には合わないのだが,こうした詳細かつ分析的な読みができるとい
うのはひとつの利点かもしれない.
エッセイの末尾で野口武彦は,松尾芭蕉の句:
蝶鳥の知らぬ花あり秋の空
を引用して:
この花は,いかなる実在の花でもない.「花」という言葉その
ものが,秋空に馥郁と咲きにおっているのである.『新古今集』
の,藤原定家の,少なくとも「見渡せば」の歌の詩法は,ここに
正当の嫡出子を見つけ出していたはずである.
という指摘を述べているが,慧眼だといえよう.
いくつかの句碑に刻まれているこの句は,芭蕉の真作であるかどうか
の決着がまだついていない「存疑」のカテゴリに属している.芭蕉七部
集を開いてみても,この「蝶鳥」に類する句はほとんど見あたらないよ
うだ.
しかし,だからといって油断は禁物.「猿蓑」の序文で,宝井其角は,
西行法師の「骨にて人を造る事」の故事を引きながら,芭蕉の詩法を
「幻術」と呼んでいる:
幻術の第一として,その句に魂を入れざれば,ゆめにゆめみる
に似たるべし.
...........
我翁行脚のころ,伊賀越えしける山中にて,猿に小蓑を着せて,
俳諧の魂を入れたまひければ,たちまち断腸のおもひを叫びけ
む.
中世から戦国時代にかけては,高名な果心居士をはじめとして,多く
の幻術師たちが活躍した.伊賀の生まれである芭蕉もあるいはそうした
血をひいていたのかも知れない.
余談だが,幻術(めくらまし)そのほかの怪異を描いては当代随一の作
家・東郷隆が,其角が引用した撰集抄・第五に記されている西行の奇妙
な事跡「骨にて人を造る事」のエピソードを下敷きにして,絶妙な志怪
小説「人造記」を書いている.この作品はせっかく直木賞の候補に挙げ
られたのだが,なぜか受賞を逃してしまった.審査員の眼は節穴だった
のではないかと,わたしはいまでも思っている.
もうひとつ余談.この夏日本でも公開された話題の映画「英雄」を,
正月に上海の映画館で観た.演出は中国映画新世代の代表的監督張芸謀.
いまやハリウッドの大スターになったジェット・リーこと李連傑扮する
剣士・無名を狂言回しに,王家衛監督の「花様年華」で悲恋の恋人たち
を演じた香港の名優・梁朝偉(剣士・残剣)と張曼玉(女剣士・飛雪)の2
人,さらにグリーン・デスティニーほかでいま売り出し中の美人女優・
章子怡(残剣の女弟子・如月) を配した豪華キャストの武侠映画である.
紅葉の林の中での飛雪と如月の決闘を映したシークエンスを観ながら,
ふと,定家の「花紅葉」の歌が思い出された.映画の本質はストーリー
にあるのではない,純粋映画言語ともいうべき個々のショットの映像美
をつなぎ合わせることによって何かを語ることができるのだという強烈
なアピールを観る者に感じせる腕力は,さすがに張芸謀であり,「紅い
コーリャン」や「菊豆」とは異なるひとつの世界をたしかに創りだして
いた.
Time 誌の特集記事を読むと,張監督はこの作品のできばえにかなり自
信を持っていて,ひそかにアカデミー賞を狙っているらしい口ぶりであ
った.はたしてこの「新古今集的な」映画がアメリカの批評家にどう受
け取られるか,いささか興味深く思っていたが,結果はやはり,外国映
画賞候補にあがっただけで受賞は逸してしまった.
4. タブローの幻術
1950年代,ジャクソン・ポロックのアクション・ぺインティングに始
まったアメリカ現代美術の新しい流れについては,「抽象表現主義」「
コンポジット・アート」「ネオ・ダダイズム」「ポップ・アート」「ミ
ニマル・アート」「コンセプチュアル・アート」などと,それぞれの外
見的なかたちや作者たちのきまぐれなステートメントにもとづくカテゴ
リ分けが行われ,評論家たちによるもったいぶった解説がなされている.
そのいくつかの例をランダムに紹介してみよう.
抽象表現主義者たちは,画材の持っている真の物質性を強調するこ
とが極度に重要だと考えていた.かれらはモダニズムを推進する上
で,それがきわめて重要な思想だと位置づけた.
(画家ハダレデモ画材ノ物理化学的特性ニ注意ヲ払ッテイル)
...........
抽象表現主義者の中には,「線で描く」派と「空間で描く」派があ
った.初めは「線」派の方が優勢だったが,アートを空間と光に浸
すという「空間」派がしだいに状況を逆転させ,その後の世代に対
して,より大きな影響を与えた.
(ツイデニ「点デ描ク」派モ加エテオイテホシイ)
...........
かれらは典型的なニューヨーク派の抽象画の方法にならって,具象
的イメージを払拭することで画面を一新した.1950年代の新しい抽
象絵画は,無意識の動作(ジェスチャー)や即興により,アーティス
トの肉体的エネルギーをタブローの上にに表現したものと考えられ
た.多くのアーティストがそうしたアイディアをもとに,それぞれ
独自の路線を開拓しようと試みた.
(太古ノ昔カラ絵描キタチハ無意識ノ解放ヲ意図シテキタノデハ?)
...........
一種の偶然性に頼ることによって,アーティストたちは,多少の不
安が入りまじった開放感に満たされてキャンバスの白い空間に立ち
向かうことができた.この開放感こそが,具象的な主題を追いはら
って純粋な抽象を形成するのに役立ったのである.かつてヨーロッ
パのシュールリアリストたちが実践したオートマティズムの技法は,
このようにしてニューヨークで大規模に変形させられ,アメリカ現
代美術に吸収された.
(自動記述ノ流行ハナニモNYダケトハ限ラナイ.チガイハタダ新
シモノ好キノ画商タチガイタカドウカダケ)
...........
1960年代には,ゲシュタルト(知覚形態)が大きな主題として取り
上げられるようになった.のっぺらぼうな知覚空間としての「場」
の概念を導入した「フィールド・ペインテング」がその典型である.
(ナゼココニ「場」ナンテイウ現代物理学用語ガトビダシテクルノ?)
...........
「私の絵画はイーゼルから生まれない」というポロックはいった.
抽象表現主義の絵画がイーゼル絵画ではないということは重要であ
る.抽象表現主義の作品はイーゼルに載るほど小さくない.ヨーロ
ッパのアンフォルメルとアメリカの抽象表現主義との決定的な違い
はこのスケールの差である.なぜスケールが必要なのか.大画面は
物理的に観る者を作品のなかへと包みこむ.そこに広がる色彩空間
の深さが作者の感情の深さであるとすれば,その空間に迷いこんだ
鑑賞者は,必然的に画家の感情を追体験することになるのである.
(小サナ画面ダッテ観るヒトノ心ヲヒキコムコトハデキル!)
読めば読むほど作品に対する理解が混乱してしまうようなパラグラフば
かりであるが,それはそれでしかたがない.
「あらゆる言説は,それが書かれた瞬間から,筆者の意図とテキストの
意味とは合致することをやめる」と,ある哲学者が述べている.絵画を,
色と形との組み合わせによって構成された一種の言説であると考えれば,
タブローが画廊あるいは美術館の壁にかけられた瞬間から,あらゆる種類
の誤解が生ずることは避けられないであろう.
そうした誤解を最小限に食い止めるために画家たちが用いてきた「幻術」
が,鑑賞者の視線の制御あるいは誘導という手法であった.レンブラント
が好んで用いた光と影のあやかしはその典型的な例だといえる.クレエが
画面のあちこちに配置した記号や文字もそのための仕掛けである.
前述したように,そうしたトリックは,2次元空間としてのタブローに
仮想的な時間を導入する働きをもたらす.つまり,作者の誘導にしたがっ
て,鑑賞者は短い時間旅行を経験させられるわけである.ただし,そのト
リックが有効に働くためには,「作品は作者の感情ないしは思考の表現で
ある」という前提が,作品を創る側および鑑賞する側の双方において,あ
らかじめ了解されていなければならない.その了解こそが近代芸術という
ものを成り立たせている条件なのであった.
いわゆる「抽象表現派」以降の主要なアーティストたちは,この基本条
件を否定するかたちで作品の制作に取り組んできたのだと,わたしは考え
ている.多くの評論家たちはそのことにまだ気づいていないようだが,た
とえばポロックのアクション・ペインティングにせよ,ラウシェンバーグ
のコンポジット・アートにせよ,あついはウォホールのポップ・アートに
せよ,見かけ上のヴァラエティとは裏腹に,それらの作品に共通した特徴
は,近代以降の美術に見られる「時間性」を徹底的に排除しようという作
者の意図である.
タブローの上にはもはや,鑑賞者の視線を一定の経路にしたがって誘導
するための仕掛けは存在しない.タブローは,ある種の時間を内包しては
いるが,しかし単なる2次元の空間としてそこに提示されている.鑑賞者
の視線はその空間の中を一定の経路で動き回るというのではなく,世界か
ら切り取られたその空間の断片を全体として一度に受け止めることを要求
されるのである.
ある意味でそれは,視覚の聴覚化だといえるかも知れない.われわれの
視覚は触覚の異母兄弟であって,何かを視たとき,われわれは心のなかで
そのものに触ってみるという疑似体験をおこなってそれを理解する.しか
し,何かの音を聴いたとき,その音に触るということをわれわれは試みた
りはしない.音は,われわれが視て(つまり触って)感じることのできる
ような「もの」ではなく,本来的に空虚な空間自体に属しているからであ
る.
2次元の平面に3次元の事物世界を描く,そしてそのために視線の制御
というかたちでの仮想的時間の導入の仕方を工夫するというのが,近代ま
での絵画の主流であり,画家たちはそのための幻術の腕を競い合ったのだ
った.2次元の平面を2次元の平面として提示するという現代絵画におけ
る幻術とはいかなるものか.わたしが私淑するヨーゼフ・アルバースの3
色の正方形を重ねただけの単純なタブローに,その答は隠されているのか
もしれない.
(August 2003)
KISHIDA Kouichi,
k2@sra.co.jp