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イメージの色彩
― 抽象芸術論覚書 2002 −
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1.だれもいない部屋
去年の夏,スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットの著書のなかに書かれたコトバ;
部屋のなかに椅子がある.
その椅子は部屋の一部である.
部屋のなかにわたしがいる.
しかし,わたしは部屋の一部ではない.
に刺激されて,わたしがいすグループ展のパンフレットのために書いた (しかしページ
数の関係で割愛した) 詩的断片がある:
格子窓できれいに切りとられた
銀色の空
しだいに凍りついてゆく
昨日の夢
ほそながい
蛇のようなかたちをしたものが
わたしの頭蓋のなかを
這いまわっている
冬の子どもたちの叫び声を
塗りこめて
なぜかあかるい
灰色の壁
その壁のうえの鏡のなかに
ひとつの部屋があり
そこにはだれもいない
だれも .......
もとより,この未完の詩の断片は,碩学オルテガの思考の深みには到底とどかない.
「灰色の壁」や「銀色の空」という表現には特に深い意味はなく,「肉体の牢獄に閉
じ込められた精神」という死隠喩を間接的に指示しただけのことにすぎない (だから
この断片は未完なのである).
もともと哲学的イメージとしては何の色もついていない「部屋」のイメージにどのよ
うな彩りがふさわしいかというのは,いささか厄介な問題である.もっとも簡単な解
決策は,上記の断片にみられるように,手近な死隠喩を利用することだが,それでは
作品の質は通俗レベルに落ちてしまう.
2.色彩の相互作用
この春,アメリカ出張のついでに訪れた SFMOMA の売店で,わが師 (といっても直接
教えを受けたわけではない.1950年代の半ばに,当時はまだ京橋にあった国立近代美
術館で開かれたバウハウス展で観た作品に感心して,勝手に弟子を名乗っているだけ
のこと) ヨゼフ・アルバースの著書 "Interaction of Color" (Revised Edition) を
手に入れた.
この本は,アルバース先生が行った色彩学についての実験的授業の講義録の要約であ
る.オリジナル版は 1963年に Yale University Press から限定版の形で出版された.
図版150枚を含み,重さが22ポンドもあったという (その現物をわたしは見ていない).
1971年に,同じイェール大学出版局から,本文はそのまま,図版を10枚だけに絞った
ポケット版が出版された.今回偶然に入手できたのは 1974年に出たその改定版である.
色彩学については,すでに数多くの理論があり,ふつうの芸術学校では,「理論と実習」
という形での講義が行われているが,アルバースのやり方はその逆であって,さまざま
な角度からの実験プロジェクトを積み重ね,理論はその最後にひとつの参考として紹介
されるだけにすぎない.
この講義録の冒頭,"Color recollection - visual memory" と題された章で,アルバ
ースは次のように述べている;
もしだれかが「赤」と(色の名前を)口にしたとして,それを 50人のひとが聴い
ていたとすれば,それぞれの心のなかには 50種類の赤色が思い浮かべられるで
あろう.そしてそれらの赤色はそれぞれまったくちがう色であるだろう.
たとえ指定された色がすべての聴衆がなんども見慣れた色,国中のあちこちに
見出されるコカコーラの看板の色であったとしても,みんなの心のなかにはた
くさんのちがった赤が思い浮かべられるだろう.
また,聴衆の目の前に何百もの赤がならべられ,そのなかからコカコーラの赤
を選ぶようにいわれたとしても,ひとびとはそれぞれちがう色を選ぶだろう.
そしてだれも自分の選択が正しいかどうかについては確信が持てないだろう.
さらにまた,もし中央に白抜きで商品名が書かれた赤い丸のコカコーラのマー
クが実際に示され,全員が同じ赤い色を見せられ,それぞれの網膜に同じもの
が映し出されたとしても,しかし,みんなはそれぞれが同じ色を認識している
かどうか確信が持てないだろう.
色彩とその名称とについて経験されるこうした連想や反応をめぐっていくら考
察を続けたとしても,だれもがそれぞれ異なった方向へ進んで行ってしまうに
ちがいない.
このことはいったい何を意味しているのか?
第1に,色のちがいを記憶することは,不可能ではないにせよ、きわめてむず
かしいということだ.そこには,われわれの視覚的記憶が、聴覚の記憶とくら
べてきわめて貧弱だという重要な事実がひそんでいる.聴覚の場合は,わたし
たちは,たった1回か2回しか聴かなかったメロディをくりかえし口ずさむこ
とができるのだが,......
第2に,色の名前のボキャブラリがまったく不十分だということである.われ
われのまわりには数え切れないほどの色彩のバラエティがあるにもかかわらず,
日常のコトバのなかには,たかだか30種程度の色の名前しかない.
このようにして,「芸術上のメディアとしてはもっとも相対的」な性格を持つ色彩を
主題とした実験的講義が展開されて行く.それは,パウル・クレエが「かたち」(フ
ォルムあるいはゲシュタルト)について行ったのと同様の,いかにもバウハウス風の
明快なスタイルである.
それはよい.しかし、この講義には足りない部分がある.それはアルバース自身の作
品 (たとえば、有名な「正方形賛歌」の連作)にもいえることだが,色彩が作品にあら
われるさいに重要な役割を果たすマチエールについての探求である.
「白い馬は馬でない」と中国古代の唯名論者・公孫竜が指摘した通り,白という色彩
は (ほかのすべての色彩も) 馬あるいはその他の(特定のマチエールを持った)媒体
を介してでなければ出現できない.アルバースもそのことはよく承知していて,しか
し,マチエールを無視した色彩の相互作用だけに焦点をあてるために、この講義では
絵具などを使わずに,色紙を用いた実習を行っているのだ.
そのことは "Why color paper - instead of pigment and paint" と題されたこの本
の第3章にはっきりと書かれている.そこにあげられた Color Paper 選択の5つの
理由は,いずれも教育的見地からすれば十分納得できるものである.ただし,色彩と
マチエールとの関係を棚上げにしたことの可否についてはなんら言及されてはいない.
3.レトリック − 文学におけるマチエール
3.1.漱石の場合
故・佐藤信夫氏が文学作品におけるマチエールともいうべきレトリックを題材にして
書かれたいくつかの哲学的エッセイのシリーズ :「レトリック認識」「レトリック
感覚」「レトリックの意味論」「レトリックの記号論」ほか(いずれも講談社学術文
庫) のなかで,わたしは「わざとらしさのレトリック (言述のすがた)」がいちばん
気に入っている.
特にその冒頭におさめられた夏目漱石論は,世のありふれた文学評論とはまったくち
がう角度から漱石文学の特徴を指摘していて,なるほどと考えさせられるところが多
い.たとえば:
漱石の文章はけっして自然ではない.不愉快を滑稽に語り,苦渋を深刻でない
ことばで語る.いつも,話をつくる人,こしらえる人であった.
..........
すくなくとも彼は,いちども<まことしやか>に書こうとはしなかった.言語
という奇怪な疑似自然に心をゆだねるには,いつもその疑似性を逆手にとる手
管をもってするほかはない,という事実をどこかで承知していたからであった.
言語に対する醒めた<わざとらしい>つきあいかたが,けっきょくは,反語的
に<まこと>を造形する方法である ---- それを一貫して実行しつづけたたぐ
いまれな作家が漱石であった.
..........
漱石の文学はその語りくちに,そのわざとらしい表現にある,とわたしは勝手
に思っている.文学とは外形より中身だと思いたい用語法をもって言えば (人
生哲学的な文学観をもって言うなら),漱石の魅力は文学ではなくその日本語に
ある,と主張しても,それほどちがいはしない.生きることに器用ではなく,
しかも納得することに依怙地な,漱石という人物像が造形した,さまざまの,
生きるという劇の問題を,私たちはそれぞれに,それなりに知っている.それ
がくだらない,などということではない.けれども,... (中略) ... 漱石に
おいて,(ことばのもっとも強い意味で) 真に *比類ない* ものは,生きかた
の参考資料を読みたがる読者たちに供給されるたぐいの中身ではなく,その修
辞的表現である.
わたし自身が初めてが漱石の文章に接したのは,終戦直後,小学校の終わりから中学
の初めにかけてのころであった.戦災を逃れてわずかに焼け残った父の蔵書のなかに,
万葉集・古事記・十八史略・唐詩選・易経などの和漢の古籍にまじって,漱石全集が
全巻揃っていた.
ほかに子供向きの書物は少年講談全集しかなく,それを飽きるほど読み返したあとは,
しかたなく上記の古典や漱石全集を読む以外に,少年期固有の知的好奇心を満足させ
るすべがなかったのである.
もちろん,「明暗」や「それから」などの小説の中身,つまりそこにくりひろげられ
るさまざまな人生劇の心理的背景などはまったく理解の外であった.にもかかわらず,
漱石全集が当時のわたしの心をなぜか魅了したのは,佐藤氏が指摘するような,漱石
一流のわざとらしい「修辞的表現」のせいであったと考えられる.
「猫」や「坊ちゃん」など,若干は子どもむきの物語は別にして,当時のわたしがも
っとも惹かれたのは,作品全体がひとつの巨大なアレゴリーを構成している中篇小説
「彼岸過迄」のなかで,重要な小道具として使われている洋杖(ステッキ)の頭飾り
の描写 (それは下町の占い師の老婆の暗示的なコトバとしていわれる) であった:
自分のような また 他人のような
長いような また 短いような
出るような また 這入るような
少し長くなるが,佐藤氏の分析をさらに引用しよう:
現実あるいは事態を<ありのままに>描くことをめざすことばは,先ほど触れ
た<言語を自由に使いこなすことができる>という願望=妄想にもとづくはず
だが,それに反して,たとえば漱石的諷喩は,まさに<言語を使いこなすこと
はほとんど不可能であり,できることは,言語によって使いこなされることだ
>と思いさだめるところに生ずるのではないか.
..........
漱石にとって,言語は − 日本語は − けっして自家薬籠中のものであったた
めしがない.言語は,いつも,どうにも手なづけられぬ生きものたちだったに
ちがいない.彼がいつも言語とふざけ,照れ,なにやら異様な物体をあつかう
ようにしかことばをならべることができなかったのは,きっと,そのせいであ
る.
..........
漱石は名文家ではなかった.彼の言述は,いつも,気になることばをもって書
かれていた.気になることば.彼においては,ことばは.いつも,すぐに遊び
の対象となるような,気になる存在として,彼と現実とのあいだに存在してい
た.
..........
漱石にとって,母言語である日本語は十分外異言語であった.(中略) 漱石の
ような鋭敏な言語感受性にとっては,母言語もまたすべて外異言語なのだ.醒
めた,<わざとらしい>対しかたでしか接することのできない外異言語であっ
た.その言述は,とかく<メタ語法>ぎみとなりやすい.意外に「遊び」に近
いのである.その,見えやすい実例は,初期の,たとえば「猫」などに,あふ
れている.
この「読み」はかなり正確だとわたしは感じる.その意味でいえば,漱石の作品のそ
こかしこには,「気になる」外異言語としての明治言文一致体の日本語を用いたある
種の「芸術的実験」,すなわち言語表現におけるマチエールとしてのさまざまなレト
]リックの試行,がちりばめられているように感じられる.
美術との関連でいえば,上記の佐藤氏の指摘は,批評家ヒルトン・クレーマーが抽象
表現派の方法論について行った次の分析とほとんど相似である:
抽象表現主義のほんとうの原動力は,絵画をその美学的な本質へと還元させる
ことに向かっていたのです.つまり,美術をその純粋な語彙へと還元し,それ
によって,絵画がどう作られたかということ以外の経験が,観る人の心のなか
に喚起されないようにすること,すべての歴史,すべての心理学,そういった
その他すべてが,そこでは排除されます.ある意味できわめて手軽なパラダイ
スがそこに提示され,われわれは視覚を通じてそこに入ることができ,永遠に
そのなかへ逃げこむことも可能になるのです.
3.2.百鬼園の場合
こうした漱石独特の文学的アプローチを,さらに純粋なかたちで発展させたのが内田
百鬼園だったのではなかろうかと,わたしは考えている.
「冥途」および「旅順入場式」に代表される百鬼園の短篇小説群は,ふつう,漱石の
「夢十夜」の後継だと解釈されている.それは,ある意味で正しいが,しかし,そう
した表面的な分析では本質的なポイントが抜け落ちてしまう.
「夢十夜」におさめられた作品群は,まだいわゆる小説というジャンルのなかにとど
まっている.そこには一定のストーリーがあり,登場人物それぞれの性格描写 etc が
ある.しかし,百鬼園先生の作品は,いずれも,見かけ上は小説のかたちをしてはい
るものの,実態としては、小説がそなえているべきストーリーその他の特性がほとん
ど欠落しており,ただ「マチエール」としてのレトリックだけで成り立っているので
ある.たとえば:
長長御無沙汰致しましたと申し度いところ長ら,今日ひるお目にかかった計り
では,いくら光陰が矢の如く長れてもへんですね.長長しい前置きは止めて,
用件に移りたいのですけれど,生憎なんにも用事がな(原文ではここは「長」
という文字を上下逆さにしている)いのです.止むなく窓の外を長めていると,
まっくら長ラス戸の外に,へん長らの着物を着たわかいおん長たっているら
しいのです.びっくりして立ち上がろうとすると,女は私のほうに長し目をし
て,それきり消えました.私はふしぎ長っかりした気持がしました.同時に二
階の庇でいや長りがりという音が聞えました.おん長のぞいたのは,家の猫の
いたずらだったのでしょう.秋の夜長のつれずれに,何のつ長りもない事を申
し上げました.末筆長ら奥様によろしく.
これは,中篇「山高帽子」の主人公が,顔の長い同僚に書き送った手紙の全文である
が,「長い」という形容詞の意味を完膚なきまでに打ち砕いたレトリックの傑作だと
いえよう.
言語のコントロール下にあった「長い」という文字が意味からはずれて,勝手
きままな運動をしはじめ,その行先がどうなるか,もはや「長い」が「長い」
としては通用しなくなるところまで加速されていくようでもあり,それでいて
意味論的脱臼のあまりの過激さに待ったを掛けて,「若いおん長」というから
には顔の長い女だろうとか,「へん長らの着物」という以上は縦縞の柄かなと,
まだ「長い」の残骸をかき集めて安堵に浸るような気休めも,読者としてはし
てみたくなる.
種村季弘氏のこのコメント(岩波文庫版「冥途・旅順入場式」の解説)は,だから,き
わめて正確だと思う.
大乗起信論にいう
一切の言説は仮名にして,実なく,ただ妄念に随えるのみ....
を作品として具現化したものだとも考えられる.
ある意味でそれは,20世紀後半にアメリカの美術家たちが試みたポップアートの技
法をすでに何十年か前に先取りしてしまっていたといえるかも知れない.同時代のダ
ダイスト詩人たち,たとえば高橋新吉(ダガバジ・ジンギジ)あたりの作品をはるか
に越えている.これに対抗しうるのは,ドイツ表現派のクリスチャン・モルゲンシュ
ターンのナンセンス・ポエムぐらいなものであろう.
わたし自身がもっとも惹かれている作品は「遣唐使」だが,これは「犬」(けん)と「
牛」(うし)という駄洒落めいた語呂合わせから出発して,超現実的な街を主人公が彷
徨する場面をランダムにつぎはぎしたもの.
私はどんなにして逃げ出したかわからない.知らない道を,夢中になって走っ
て,漸く立ち止まった所で,振り返って見たけれど,方角も見当もたたなかっ
た.町の中には温かい風が退儀そうに吹いていた.顔に当って,うなじに廻る
風の長さがわかる様な気がした.月の落ちた長安の闇に,影絵の如く立ち並ん
だ屋根の辺りから,猫の毛を吹き散らした様な雨が,ふわりふわりと降ってき
た.
という最後のパラグラフの描写からもわかるように,この作品には,ほとんど色彩が
ない.それはわたしたちの夢とおなじように色彩感覚を欠いている.文庫版で6ペー
ジの文章のなかで,明示的に「色」について述べているのはわずか数ヶ所だけである
:
− 黄色い日が辺りを照らして,生温かい風は,ふわふわと吹いて来た.
− どちらにも同じような形の黄色い山があって,麓の辺りは薄青くなりかけて
いた.
− 座敷の中には真赤な卓子と椅子とが据えてあって,私の来るのを待っていた
らしい.
− 若い美しい女が五,六人私のまわりにいた.そうしてみんなそっぽを向いて
笑っている.どれを見ても肌が白くて,温かそうで,唇が赤くてぬれていた.
− すると,女が私の頚を抱えている腕を急に締めて,片方の腕をにゅっと私の
前につき出した.その手の甲から手首にかけて,もじゃもじゃと黄色い毛が
生えていた.
これらの色彩描写は,まるで夢の中のようにぼやけていて,黄色とか赤とかいっても,
それがどのような黄色であり赤であるのかは明確でないが,作品全体の語り口から受
ける印象としては,古びた水墨画の色あせた黄色という感じが濃い.それは,上に引
用した5番目のセンテンスにすぐ続いて,最後のパラグラフが来ているからかも知れ
ない.
4.部屋のイメージ
あなたがもしミステリ・フアンであるとしたら,「黄色」という単語からすぐに連想
されるのは,密室トリックの名作,ガストン・ルルーの「黄色い部屋の謎」であろう.
この小説については,すでに都筑道夫さんが,「黄色い部屋はいかに改装されたか」
というすぐれたエッセイを書いておられるので,いまさら駄弁をつけくわえる必要は
ない.
しかし,一般的にいえば,何らかの謎を秘めた部屋のイメージに「黄色」あるいはそ
のほかの色彩が短絡的に結びつくとは限らない.そのことは,わたし自身が「部屋」
を題材として以前に試作したいくつかの詩をみてもたしかである.たとえば:
五月
あるいはそのほかのいつでもよい夜の部屋で
ぶらさがった電灯はかすかにゆれていたりはしない
めくらの鳥かごは小鳥の番をしない
きげんの悪い猫はなかなかねむらない
母親は
ひどくちいさくなり
身軽に椅子のうえへとびのったりする
たくさんの姉や妹たちは
雲のかたちをしたお菓子をたべながら
薄闇のほそながい廊下を
むこうへ
魚のようなものが屋根のうえをただよっていく
窓からのぞいてもそれはみえない
窓のむこうはくらいのだろう
窓からのぞいた顔をわたしはみない
たとえ
どのようにみにくい少女の顔であろうと
ふるえている植物はふるえている植物
扉は扉
部屋は部屋
これは「5月でもよい夜」と題した作品.前半は島尾敏雄さんの「夢の中での日常」
のスタイルを借りた情景描写.最後の2連の下敷きはそのころ気にかかっていたパウ
ル・クレエの水彩画だった.したがって,無理にこじつければ水底の青い色が全体を
覆っている (?).
あるいは,次の作品:
朝が階段をおりてくる
いろんなものがふたしかになる
まだ
みおわらない夢のように
パンをたべながらないていた娘
パンをたべようともせずにないていた娘
そして
水をのんでいたひとりの娘
うすぐらい壁のうえに
娘たちがひっそりとしがみついている
あかるくなりかけた壁のうえで
娘たちの目はこちらをみているともつかない
病気の窓ぎわ
ガラスびんのようにくびれている鳥の
内部は
ためらいながらくさりはじめる
これは,文字通り「部屋」と題した作品.書いた当時は,Light Verse として比較的
うまくできたと思っていたのだが,その後河出文庫版の「中国怪談集」に収められた
イェ・ウェイリンの短編小説(人生に絶望した五人の少女が一本の白い縄で首を吊る
というできごとを広西省の土俗的なムードを背景に記録したマジック・リアリズム・
ノベル)を読んで,色彩感覚の上で「負けた」と思った.いつだったか,台湾映画祭
で,舞台を黄土地帯の農村に変えた映画を観たが,こちらもなかなか彩り豊かであっ
た.
最後に,もうひとつの断片:
鏡のむこうで
だれかが唄をうたっていて
窓が
わたしの耳であるかのように
どこへともしれず
にげてゆく唄
きいていない耳
その鳥は もう
化粧をすませ
わたしの足が
しだいに
ねじれてゆくのを
みて わらっている
そこで
羽をすぼめ
わらっている一羽の鳥
どうして?
と たずねることもできないまま
室内は反転現像され
食卓には
猫たちの舌
そして
わたしの舌
「時の遅れ」を唄ったこの作品では,部屋の色を明示しないままそれを反転させると
いうことを試みたのだが,しかし,あまり成功しているとはいえない.
(2002 August)
KISHIDA Kouichi,
k2@sra.co.jp