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存在と非在のパスティーシュ
(抽象芸術論覚書 2001)
いすグループ展 2001
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1.目に映る世界
「人間は記号を用いて数知れぬ世界を無から創りだす」といったの
は,哲学者エルネスト・カッシーラーであった.ここで記号とは,哲
学者や詩人たちが使うコトバだけではなく,画家たちの道具である色
や形,音楽家たちのメロディーやリズム,あるいは役者や踊り子たち
の身振りなど,あらゆるものを指す.
そのようにして,たくさんの「世界」が次々に創りだされ,それら
はいわば一種のパラレル・ワールドとして同時並行的にわたしたちの
前に立ち現れる.当然のことだが,それらの「世界」のいくつかはお
互いに矛盾している.
哲学者たちがよく例にあげるのは,天動説と地動説との矛盾である.
宗教裁判が終わったときにガリレオ・ガリレイがつぶやいたという捨
てぜりふ「それでも地球は動いている」は有名だが,しかし,21世
紀のいまでも,わたしたちの日常感覚は天動説にしたがっていて,と
きどきTVの画面で人工衛星からの映像を観るときに地動説を想い出
すだけでしかない.
この2つの相矛盾する表明をどのようにして調和させるかは,哲学
上の大きな問題である.もっとも簡単な解決策は,それらの表明がそ
れぞれ異なった観点からなされたものであると見なし,対象とする世
界は1つしかないにもかかわらず,わたしたちの気まぐれな立場の移
動のせいで異なったイメージが立ちあらわれるのだと考えることであ
ろう.しかし,このような安易な相対化は,「いったい地球は止まっ
たいるのか? それとも動いているのか?」というもともとの問いか
けと比較すると,あまりに軽すぎて,ことがらの本質的な解決にはな
っていない.
美術の世界に話題を移そう.
人物画でも静物画でも風景画でもいい,絵画の歴史を振り返ると,
そこには数知れぬ世界の断片がころがっていて,観る者の心を惑わせ
る.たとえば,レンブラントの自画像とゴッホのそれは,あきらかに
異なる世界の存在を指し示している.ピカソそのほかの立体派の描い
た人物像はどうか.それとも古代中国あるいは日本の絵画における名
僧知識たちの肖像をもってきてもよい.それらのまったく異なる画法
で描かれた人物像のうち,どれが人間の肖像としてもっとも「正しい」
描き方なのであろうか?
ここでいう「正しさ」とは,どの描法が「世界」の真実の姿をとら
えているかという意味である.この質問に対する答えは,それぞれの
画家あるいは美術鑑賞者の立場(あるいは趣味)によって異なるであ
ろう.
そこでは,「世界」とその「像(イメージ)」との関係について,次
のような図式が前提になっている:
すなわち,まず,観られる対象としての「世界」が,観察者とは独
立に最初から存在しているものと考えられている.それを観る者の目
はカメラのレンズに,そして描き出された作品はフィルムまたは印画
紙にたとえられよう.実際,写真術が発明される以前に,絵画が担っ
ていた主要な役割はそのようなものであった.
「写真」という日本製の漢字熟語は,文字通りに解釈すれば,「も
のごとの真実の姿を写す」という意味になる.それは,江戸時代末期
に西洋から輸入された機械に対する当時の人びとのナイーブな驚きを
素直にあらわした造語だといえよう.しかし,わたしたちは,印画紙
に焼き付けられたイメージが「真実」とは程遠いものであることをす
でに承知している.その意味では,「照相」という中国語のほうが,
"Photography" の訳語としてより適切かもしれない.それは「ある瞬
間における対象の様相をフラッシュに照らして映し出す」ことを意味
している.
認知科学の研究が明らかにしたところによると,「肌色」という色
合いの定義は人種によって異なる.われわれ黄色人種にはそれなりの,
また白人や黒人にはそれぞれ別の「肌色」の概念があり,それは人び
との脳細胞の中に刷り込まれている.したがって,大衆向け商品とし
てのカラー写真フィルムやカラーコピー機は,そうした「肌色」を忠
実に再現することを要求される.もちろんそのためには,科学的な正
確さを無視して,文化人類学的な補正を行うことが必要になる.でな
ければ,商品として売れないのだそうだ.アメリカ旅行のさいに現地
で現像焼付けした写真がどれもなんとなく青みがかっているのは,こ
うした理由からである.
具象絵画を成り立たせているこのメタファにおいては,「写真機」
としての画家という機械の特性と,鑑賞者との心理的な相性が重要に
なる.
すでに述べたように,「世界」はわれわれとは独立に存在しており,
その日常感覚におけるイメージも,画家および鑑賞者の双方にとって,
前提として与えられている.その条件下で,写真機としての画家の目
が「世界」をどのようにとらえ,印画紙としてのキャンバスにどんな
ふうに焼き付けたのかが問題なのである.鑑賞者は,いわば,画家の
目のレンズを通して「世界」をみつめなおす.そうして得られた「世
界」のイメージが鑑賞者の感性にとってどの程度受け入れやすいもの
かどうかによって,作品の評価が定まる.
もちろん,そのとき「世界」の全体をいっぺんにとらえることはで
きない.「世界」を構成するたくさんの要素のうちから,画題として
いくつかの対象を選び出しそれらを組み合わせることが必要になる.
この選択とアレンジメントもまた,「写真機」が持つべき重要な性能,
すなわち画家の才能を評価するさいの決め手だと考えられている.
2.星と星座 [*]
6才になるあなたの娘が「お空にあるあれは何?」と問いかけたと
して,あなたは何のためらいもなく,「あれは北斗七星さ」と答える
だろう.しかし,多くの子どもたちがそうするように,あなたの娘は
さらに質問を続けてくる.たとえば,「だれが北斗七星をつくったの
?」と.
この2番目の問いに答えようとするとき,あなたは少しためらいを
覚えざるをえない.「北斗七星は『自然』がつくったのさ」と答える
べきか,それとも「わたしたち人間がつくったのさ」とこたえたほう
がいいか,というためらいである.というのは,どちらの答えに対し
ても,さらに次の質問:「で,『自然』って何?」あるいは「人間は
どうやって北斗七星をつくったの?」がやってくることが予想される
からである.これらの質問に答えようとすると,おそらく真夜中をは
るかにすぎてしまうだろう.
ネルソン・グッドマンは,北斗七星はわれわれの手でつくられたの
だと主張している.すなわち,星たちのある組み合わせを拾い上げて
星座というかたちに構成するというのは人間のなせる業なのだと.か
れによれば,それらの星たちの組み合わせを北斗七星たらしめている
のは,決して『自然』ではなく,われわれが目に映るものからつくり
だす「バージョン」[**] のひとつにすぎないのである.
さて,そうであるとして,次には「北斗七星」という星座を構成し
ている個々の星たちをだれがつくったのかが問題になる.星座は人間
がつくったが,それを構成する星たちは『自然』がつくったのだと考
えるのが,常識的な態度であろう.しかし,グッドマンは,星を「星」
たらしめているのは,決して『自然』ではなく,『自然のあるバージ
ョン』にすぎないと主張するのだ.
かれはいう:「この世界についてわれわれがもっているいくつかの
信頼すべきバージョンのどれをとってみても,『星』はそれらのバー
ジョンより以前から存在している.そうしたバージョンの1つを W
としよう.W に固有の時間座標では,W 自身の始まりは『星』の始ま
りよりずっと後にセットされている.しかし,まったく別のバージョ
ン V を考えると,『星』もまたその他のすべてのものも,そのバー
ジョンをつくるのに用いられた別のバージョンを介してそこに入って
くる.なぜなら,世界は無からつくられるのではなく,すでに存在し
ているバージョンを利用してつくられるからである.絶対時間などと
いうものは存在しない.W の時間では『星』が最初にあり,V の時間
ではバージョンが先にある.どちらが正しいかといえば,両方とも正
しいのである」.
[*] この節は,ネルソン・グッドマンが "Ways of Worldmaking"
(邦訳「世界制作の方法,みすず書房)で提起した諸問題を議論し
た哲学シンポジウムの記録 "Starmaking - Realism, Anti-
Realism, and Irrealism" (MIT Press, 1996) の序章に,この報告
書を編集したピーター・マコーミックが書いた解説の抄訳である.
[**] 「バージョン」とはグッドマン独特の用語であるが,「世界
の見方」あるいは「世界のイメージ」と読みかえてもいいだろう.
3.「絵に」描くことと「絵を」描くこと
さて,「写真機のメタファ」によって絵画を考える場合,描かれる
対象(それはもしかしたら北斗七星かも知れないし,あるいは個々の
星かも知れない)は,描かれる以前に,画家の存在とは独立にそこに
存在していたのかどうかを問題にしてみよう.
キャンバスに描かれた絵は,画家の手でつくりだされた1つのバー
ジョンである.それは,決して無からつくりだされたわけではない.
具象絵画の場合でいえば,それは (a) かれの目の網膜に映る物理光
学+生理学的な映像のバージョンと,(b) かれの脳のなかにこれまで
の人生経験を通じて構築されたバージョンとの組み合わせを介して,
(c) かれがいまその絵を描いている時点での感情をフィルターとして
, つくりだされたものである.
「写真機のメタファ」において,世界があらかじめ存在する(すな
わち,絵が描かれる以前,画家が世界を『絵に』描くか否かにかかわ
らず存在している)という前提条件の意味するところは,まず第1に,
上記のバージョン (a) が,画家自身や鑑賞者を含むすべての人間に
とってほとんど同じものだということである.この認識論上の仮説は,
しかし,残念ながら成り立たない.色盲や色弱の人の目に映る風景は,
健全な目の持ち主が見るものとは異なる.そしてまた,健全な視力の
持ち主のあいだにおいても,あなたの歯痛をわたしが感じることがで
きないように,あなたが見る「赤」がわたしの「赤」と同じかどうか
はだれにもわからないのである.脳神経学者オリバー・サックスの名
著「火星の人類学者」(ハヤカワ書房,最近文庫版も出た) に載って
いる冒頭のエピソード,交通事故で色の感覚を失った画家の物語は,
その意味でもきわめて興味深い.
さらに,もうひとつ存在論上の問題がある.
絵画教室などで,人体デッサンのクラスが長時間になる場合,途中
で休憩をとることはしばしばある.それまで裸で静止ポーズをとって
いたモデル嬢がローブを羽織り,タバコをくゆらせながら,先生や生
徒たちとおしゃべりし,時間がくるとまたもとの場所に戻ってポーズ
をとる.わたしたちが静物画や風景画を描くとき,それと同じことが
起こらないといえるだろうか.籠の中の林檎が,わたしが目を離して
休憩している隙にバナナに変身してテーブルの上を踊りまわり,わた
しが再びキャンバスに向かおうとする寸前にまたもとの林檎に戻って
籠におさまる.
「コミックSF じゃあるまいし,そんなことは現実にはありえない」
とあなたはいうだろう.わたしの中の常識人はそれに同意する.「し
かし,そうした奇妙なことが絶対に起こらないとは,神様以外には保
証できないのではないか?」と,もうひとりのへそまがりなわたしは
つぶやくのだ.
現実的な次元に立ち戻って話を進めれば,わたしがさっき「絵に」
描いた林檎は,いま籠の中にはいっている林檎とは,厳密にいえば異
なる.時計の針を早送りして1ヶ月先に進めれば,その林檎は腐って
いるかあるいはしなびてしまって,私が描いた姿とは変わっているに
ちがいない.そうした変化が,林檎の内部では確実に進行していて,
ただ短い時間のあいだではわたしたちの目には見えない.それだけの
ことである.同じような意味で,葛飾北斎が見た富士と,わたしたち
が新幹線の車窓から眺める富士とは,同じ山ではない.
いいかえれば,わたしが何かを「絵に」描いたとき,その「何か」
はわたしが「絵を」描くという行為と無関係に存在しているわけでは
ないのだ.わたしがそれを描いた絵があって初めて,それがそこにそ
うして存在していたということが証明されるのであって,その絵がな
ければ,はたしてそれが存在したかどうかはだれにもわからない.
このことは,その絵が林檎や樹木あるいは人物など現実にある何か
を表象するものでない場合を考えれば,もっとはっきりする.たとえ
ば,わたしが想像上の動物である竜の絵を描いたとしよう.そこに描
き出された竜は,わたしがその絵を描いたことによって初めて現実世
界に登場する.つまり,この場合,わたしは「竜を『絵に』描いた」
のではなく,「竜の『絵を』描いた」というのが正確ないい方であろ
う.
それでは,「絵を描く」とはいったいわたしたちにとっていかなる
行為なのか.他の芸術/創作(あるいは記号化)活動との比較でいえ
ば,音楽の作曲や演奏がもっとも近いといえるだろう.音楽を成り立
たせている要素は音とメロディとリズムだが,絵の場合には色と形と
マチエールとがそれらに対応する.
日常のコミュニケーションの道具であるがゆえに,使われる記号と
してのコトバにさまざまな意味がしみついている文学の場合とちがっ
て,絵や音楽の作品づくりに用いられる記号(色や形あるいは音)は,
もともと何の意味も持っていない.しかし,「楽しい色合い」とか,
「哀しいメロディ」とかいった表現があるように,本来無意味である
はずのそれらの記号にも,人間は無理矢理何らかの意味をからませよ
うとする.ディズニー映画「ファンタジア」が一般の人気を博したり
するのはそのせいであろう.
たとえば,画家がキャンバスの上にマルを描いたとしよう.多くの
鑑賞者の意識にはそれを太陽として解釈するような仕掛けが刷り込ま
れている.この種の刷り込みは,象形文字である漢字その他の記号体
系にも共通のメカニズムである.そして,その刷り込みシステムが消
滅してしまったときには,文字が,コミュニケーション媒体としてで
はなく,抽象的なグラフィック・デザインとしての魅力を発揮しうる
ことも,最近日本の若者の間で人気を集めている東巴文字(中国雲南
省に住む納西族の伝承文字)の例でも明らかであろう.
音楽を作曲するとき,あるいは絵を描くとき,制作者側が苦心する
最大のポイントは,そうした記号と意味との関係をどう断ち切るかで
ある.絵画や音楽におけるさまざまな制作技法はそのために考案され
ているといってさしつかえないだろう.
さまざまな技法がある.
もっとも単純な「俗流抽象画」のアプローチは,現実の具象世界に
はありえないような色や形だけを用いて画面を構成することだが,そ
れは口でいうほど容易ではない.なぜなら,画家たちの頭のなかにも,
これまでの人生経験を通じてすでにいろいろな刷り込みがなされてい
て,純粋な色や形での思考を妨げるからである.自動記述やドリッピ
ングその他の技法は,そうした意識上の障害を避けるために考案され
たものだと推測されるが,しかし,生成されたイメージを眺めてそれ
を解釈する側における刷り込みの影響を防ぐことはむずかしい.作品
制作の過程では,作者も一時的に鑑賞者の立場に立って画面の構成そ
の他を吟味するわけだが,そのさいの意識および無意識の働きが問題
なのである.
わたしがいま興味を覚えているのは,もう少しニヒリスティックな
技法,すなわち日常世界に見られる具象的な色や形をそのまま利用し
て,しかも非現実的なイメージを観る者に与えることを意図したポッ
プあるいはスーパーリアリズムの方向であるが,まだ自分で試しては
いないので,それほど実感があるわけではない.
4.だれもいない部屋
スペインが生んだ20世紀最高の思想家のひとりオルテガ・イ・ガセッ
トが1932〜33年にマドリッド大学でおこなった連続講義のノートの英
訳版"Some Lessons in Metaphysics" を,旅先のニューヨークの古書
店で手に入れた.ときどき,飲みすぎのせいで浅い眠りからふと目が
さめてしまったりした深夜の寝床のなかで,ランダムにページを拾い
読みしている.
− 部屋のなかに椅子がある.その椅子は部屋の一部である.
それはその通りだろう.
− 部屋のなかにわたしがいる.しかし,わたしは部屋の一部で
はない.
さて,そうであるとして,いま,わたしのからだのなかに棲みつい
ているこの不眠の亡霊は,はたしてわたしの一部なのだろうか?
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格子窓できれいに切りとられた
銀色の空
しだいに凍りついてゆく
昨日の夢
ほそながい
蛇のようなかたちをしたものが
わたしの頭蓋のなかを
這いまわっている
冬の子どもたちの叫び声を
塗りこめて
なぜかあかるい
灰色の壁
その壁のうえの鏡のなかに
ひとつの部屋があり
そこにはだれもいない
だれも .......
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もとより,この未完の詩の断片は,碩学オルテガの思考の深みには
到底とどかない.
KISHIDA Kouichi,
k2@sra.co.jp