ミステリと詩とポップ・アート
    
                       (世紀末の Coffee Break)

		       - いす Group 展 2000 -
    
    
    1. 蛇と鳥のイメージ
    
      何気なくのぞいた古本フェアで, K.C. コンスタンティンの「空白
    のページ殺人事件」(原題 "Blank Page",中公文庫,1985.絶版) を
    入手した.まさか翻訳が出ているとは知らなかった.
    
      ペンシルバニアの田舎町でブルーカラーの労働者としての生活を送
    りながら,夜と週末にタイプライタに向かい,1年1作のペースで地
    方色豊かなミステリを書きつづけているというだけで正体不明のこの
    作家の名前は,1970年代最高のハードボイルドと評された「最後の甘
    い口づけ」 (ハヤカワ文庫) の作者ジェームズ・クラムリーのインタ
    ビュー記事で知り,か れが絶賛している "The Man  Who Liked Slow
    Tomatoes" ほかの作品を読んで,ペンシルバニア方言を駆使したその
    会話体の魅力にすっかりとりつかれてしまった.
    
      初期の数冊しか日本語に翻訳されていないのは残念でならない.去
    年ペーパーバックで読みなおした "Sunshine Enemy" などは,まさに
    傑作としかいいようがないと感じた.ニューヨークタイムスの書評子
    は,コンスタンティンの諸作品を「アメリカン・ドリームから落ちこ
    ぼれた庶民たちの心情を映し出したもの」といっているが,まさに当
    をえた評価だと思う.レーガン政治に代表される金持支配の構図が社
    会をいかに蝕んでいるかが,アメリカ鉄鋼産業の没落にともなってス
    ラム化した田舎町の警察署長を狂言回しとして,ミステリ仕立てで描
    写されているさまざまな日常生活風景のなかにも,はっきりとあらわ
    れている.
    
      ところで,「空白のページ」では,事件の謎を解く重要な鍵として,
    テオドール・レトゥキ (Theodore Roethke) の詩が何篇か引用されて
    いる.きいたことのない詩人だったので,インターネットで調べてみ
    た.
    
      1908年ミシガン生まれ.1940〜50年代のアメリカ芸術界に大きな影
    響を与えたと伝記にはあった (1953年ピュ―リッ ツァ賞受賞).W.H.
    オーデンあたりとつきあいがあったらしい.日本でいえば,荒地グル
    ープの兄貴分か (?).Roethke という風変わりなファミリーネームは,
    一瞬どう発音したらいいのかとまどったが,ケルト(スコットランド)
    系の移民なのだそうだ.試みに,ある Web Page に載っていた短詩を
    訳してみた.
    
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          蛇
    
        いっぴきのまだ幼い蛇が
        まだらの日陰からすべりだしてきて
        石のうえにそろりとからだをのばすのを
        わたしはみていた
        薄いくちびる
        静かな空気のなかで輝く舌
    
        突然  かれはからだを反転させて
        影をひらめかせ
        音もなくむこうへきえていった
      
        じぶんの血がゆっくりと熱くなるのを
        わたしは感じた
        純粋で敏感なかたちに変身したいと
        前から願っていたのだ
        きっといつかその時がくる
    
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      いささかまともすぎておもしろくないというのが,正直な印象であ
    る.しかし,かれはこうしたまじめな作品だけではなく,次にあげる
    ようなコトバ遊びの詩もいくつか書いている.
    
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        The Ceiling
    
      Suppose the Ceiling went Outside
      And then caught Cold and Up and Died?
      The only Thing we'd have for Proof
      That he was Gone, would be the Roof;
      I think it would be Most Revealing
      To find out how the Ceiling's Feeling.
    
      かりにもし天井が外へでかけたとして
      そして風邪をひいて死んじゃったとして
      ぼくらに残されたのは屋根だけしかない
      かれがいなくなったことの証拠はそれしか残っていない
      でもぼくは思うんだが,おそらくいちばん衝撃的であろうことは
      テンジョーが一体どんなカンジョーを抱いていたかが
    					    暴露されることだ
    
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      この系列の,どちらかといえばわるふざけに近い作品のほうが,な
    んとなくシュールな感じがしてどことなく好感が持てる.
    
      別に,この詩に刺激されたというわけではないが,戯れに次のよう
    な「いろはうた」を作ってみた (詩というより,わけのわからぬ判じ
    ものでしかないが).
    
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                 ゑひすたゐこく     恵比寿 大黒
                 いま               今
                 ゆけのなかへ       湯気の中へ
                 ほら               ほら
                 ぬめつてるんやろ   滑ってるんやろ
                 えさもみ           餌揉み
                 うおをむしれと     魚を毟れと
                 わちきは           わちきは
                 あねによりそふせ   義姉に寄り添ふぜ
    
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      わるふざけといえば,チャールズ・ブコウスキーの遺作「パルプ」
    (新潮文庫) も相当なものである.ブコウスキーの小説は,以前に偶
    然のきっかけで短編「町でいちばんの美女」を読み,これは散文の形
    で書かれた20世紀最高の恋愛詩ではないかと感じて以来,この「パ
    ンク爺さん」の作品は,翻訳が出るたびに追いかけてきた.
    
      「パルプ」は,題名が示すように,戦前のパルプマガジンのハード
    ボイルド・ミステリのパロディなのだが,主人公である私立探偵が正
    体不明な「死の貴婦人」 (Lady Death) の依頼を受けて,すでに死ん
    だはずのフランスの作家セリーヌそっくりの男の行方を捜すあたりか
    ら物語りがはじまる.そして,その男がハリウッドの古本屋にいるの
    を見つけだす.
    
         俺は奴の方にゆっくり歩いていった.すぐそばまで行った.ぴ
       ったりくっつくと,何を読んでい るかも見えた.トー マス・マ
       ン.「魔の山」.
       
         奴は顔を上げて俺を見た.「この男はモンダイを抱えている」
       奴は本を持ち上げて言った.「どんなモンダイ?」俺は訊いた.
       「退屈がゲイジュツだと思ってる」
    
      このやりとりを読んで思わず笑ってしまった.わたし自身も,かつ
    て不眠症に苦しんだとき,「ブッデンブローク家の人びと」を睡眠薬
    代わりに使ったことがある.ベッドのなかであの長編小説のページを
    ランダムに開き,そこから読みはじめると,10ページ以内に必ず眠く
    なってくれたのである.
    
      「パルプ」を読み終えたあと,すでに買ってあったブコウスキーの
    もう1冊の文庫本「ありきたりの狂気の物語」を再読した.短篇「空
    のような目」に次のような一節を見つけた.
    
        本質では,詩として今日幅広く受け入れられているものは,表が
      つるつるすべすべしたガラスのようなものだ.差し込む光で内側を
      のぞくと,そこにあるのは,金属質で人間味のまるでない足し算の
      ような,あるいは秘密めかした,言葉と言葉の連なりである.

        とにかく退屈.ものすごく退屈なのだ.退屈すぎて,退屈さが秘
	められた意味にとって代わっている.意味が隠れたということな
	のだが,そこまで上手に隠れられてしまうと,意味などもともと
	なかったかのように思えてくる.
    
        時代の問題といってもいい.詩についていえば,いまのところ,
      かくいうわたし,チャールズ・ブコウスキーを含めて,規律も重ん
      じる厳格きわまりない奴とか,恐ろしく革新的な奴とか,男たちと
      か,神々とか,われわれをベッドからたたきだして地獄のような暗
      い工場や町へ向かわせる腕っぷしの強い奴らとか,そういうのはい
      ないのである.T.S.エリオットはもうだめだ.オーデンは機能して
      いない.パウンドは死を待つのみ ...
    
      まさに,酔いにまかせての書きなぐりとしかいいようのない乱暴な
    文章だが,ひところのアメリカ芸術界の雰囲気をよくつたえているよ
    うに感じられた.
    
      だからといって,いまも状況はたいして変わってはいない.「陳腐
    さこそが芸術だ」と逆説的なせりふで世の中を煙に巻いている彫刻家
    ジェフ・クーンズが,ニューヨークのロックフェラー・センター広場
    に生きた植物で巨大な仔犬の像を作ったという記事が,この春,東京
    の新聞に出ていた (これは,かつてかれがイギリスの古風な館の前庭
    で作ったものの二番煎じ). 先月,仕事でニューヨークへ行った機会
    に寸見したところ,ちょうど全身が花盛りであった.陳列期限最後の
    9月には,葉っぱが伸びて,小犬変じて老いた椋犬になっているかも
    しれない.そうやって,無意味の意味をアピールすることしか,この
    世紀末のアーティストたちにはスポンサーとしての大衆に訴える術が
    残っていないかのように見える.
    
      ところで,「パルプ」では,死の貴婦人と並んで,やはり正体不明
    な「赤い雀」が重要な偶意的役割を担って登場する.最後に主人公は
    ロス郊外の公園の森の中で拳銃で撃たれ,巨大な赤い雀の喙のなかに
    飲みこまれてゆくのだが,こうした終末感のイメージ作りは,ブコウ
    スキーの得意技のひとつだといえよう.
    
      ちょっと待った.「蛇」そして「鳥」という2つのキーワードを使
    った詩なら,ちょうど1年ほど前にわたしも書いた記憶がある.
    

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        鳥
    
      空のうえで夜がこわれ
      わたしの指が
      夢といっしょにとけてしまう
    
      でも  あなた
      まだ目をさまさないでいいのよ
      と
      耳のなかのちいさな蛇
    
      汗まみれの
      寝台がきしむ
      灰皿のなかでくすぶっている
      悪夢の燃えかす
    
      さびついた明日への扉を
      こじあけて
      だれかが
      そうっとはいってくる
    
      ほら
      そこの
      テーブルのうえでこっちをみている
      黄色い鴉
    
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      これは,フィンラン ド北部のオウルという街で開 かれた会議に出
    て,白夜というものを初めて体験したときのもの.太陽は真夜中過ぎ
    に水平線にちょっとタッチし,そのままジャンプして,すぐにまた上
    がってくる.つまりは一日24時間ずうっと明るいというだけのこと.
    ロマンティックでもなんでもない.日本を出る前, "I'll stay two
    nights."  とアメリカの友人に e-mail を出したら,"You will have
    no night there!"というメッセージが返ってきたのだが,たしかにそ
    の通りだった.
    
      ホテルの部屋に はカーテンがなく,半透明のブラ インドだけなの
    で,室内にも夜はやってこない.窓の外では,鳥たちが一日中騒いで
    いる.かれらはいつ眠るのだろうかと,旅の途中コペンハーゲン空港
    で仕入れたメタリックボトル入りのウォッカを飲みながら考えたりし
    たのだった.
    
    2. 夜そして女性たち
    
      女流ミステリ作家マーシャ・マラーの筆によって,8分の1だけア
    メリカインディアンの血がまざったサンフランシスコの女流私立探偵
    シャロン・マコーンがデビューしたのは1977年だったから,もう20年
    以上も前のことだ.その後1980年代に入って, V.I. ウォーショウス
    キーやキンジー・ミルホーン,1990年代にはキャット・コロラドやス
    テファニー・プラムなどの後輩たちが登場し,女性探偵たちの黄金時
    代がやってくるのだが,元祖としてのシャロンの地位はまだ揺らいで
    いない.残念ながら日本語への翻訳は,徳間文庫から最初の数冊が出
    ただけで,そのあと中断しているが,....
    
      先日,娘に教えられて散歩のついでに覗いた洋書専門の古本屋で,
    マコーン・シリーズのなかでも最高だと評されている "Both Ends of
    The Night" (直訳すれば「夜の両側の端」,1997年刊,シリーズの第
    18作目) を手に入れた.次の戯れ唄は,その題名だけを借りてつくっ
    てみたもの.ミステリの内容とは無関係.

    
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        シャロンに
    
      夜のこちらがわの端で
      わたしは
      たちどまる
    
      遠くのほうで
      だれかが呼んでいるようでもある
      かすかな血の匂い
      透明な風のナイフ
    
      街角の公園では
      記憶の亡霊たちがなにかをつぶやき
      時の噴水は
      もう凍りはじめた
    
      いつのまにか
      夜のむこうがわの端にあなたがいて
      しずかにわらっている
    
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      ここ2〜3作の探偵シャロンは,パイロットである新しい恋人の影
    響で免許をとったので,小型飛行機がストーリー展開の重要な鍵にな
    っている.
    
      わたし自身が小型機に乗ったのは,もう10年以上も前 UC バークレ
    イの UNIX グループを訪問したときが最初で最後.あのときは,夕食
    をどこで食べようかという雑談の途中で,たまたま横を通りかかった
    プログラマが大学飛行クラブのメンバーだということがわかり,飯を
    おごるからハーフムーン・ベイまで飛んでくれないかというハプニン
    グになったのだった.
    
      往きは,サンフランシスコの夜景を左下にみながらゴールデンゲイ
    トを飛びこえた.復路はわたしが副操縦席に座り,ジャンボ・ジェッ
    トが頻繁に離着陸している国際空港の上を横切ってオークランドまで
    帰った."How  do you feel?  Quite an experience,  isn't this?"
    と,操縦棹を握りながらいたずらっぽい目で笑っていたあのプログラ
    マは,いまごろどこでハッキングしているのだろうか.
    
      後部座席に同乗していたもう一人の年少の友人は,現在シアトル郊
    外のコテージに2頭の馬と1匹の犬,奥さんそして一人息子と住み,
    Home Office で技術コンサルティングビジネスを営んでいる.アメリ
    カはまだ,西武劇時代の未開野蛮から精神的には脱けきれていないよ
    うに見える.
    

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        誘導飛行
    
      ことばの弾丸によって
      撃ち落される寸前に
      その鳥の
      網膜に映ったイメージ
    
      灰色の高層ビルの林
      三角波に覆われた湾の海面
      その上をまたいでいる鋼鉄の吊り橋
      それらがちょっと歪み
      そして倒立し
      反転する
    
        さあ そこでもういちど右に旋回して
    
      副操縦席からの低い声
      なぜがスキーマスクで顔を隠しているが
      どうやら女性らしい
    
        もし いま燃料が切れたとして
        あなたはどこへ不時着するつもり
    
      思わぬ質問に
      機体は大きく揺れて
      いつのまにか冬の夜の闇のなかへ
      暗い空から
      吊されたちいさな恐怖
      コックピットの中で凍りつく希望
    
      蛇行する
      ハイウェイの上の
      ヘッドライトが
      わたしたちの墜落を誘っている
    
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      話はここで一転して日本の過去にワープする.一度どこかでみかけ
    たがつい買いそびれた「江戸女流文学の発見」(門玲子著,藤原書店)
    が,行きつけの書店の棚に入荷していた.さっそく目を通したのだが,
    漢詩文の章に収録されているいくつかの詩篇のなかで,次の七言絶句
    が目にとまった.
    

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          早春雨中
    
        無酒無花空渡時
        春寒料峭粟生肌
        新泥細雨情慵出
        独向窓前覆昨碁

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      作者は,高橋龍,号は玉蕉  (1802〜68).仙台の商家の娘,努力し
    て文学や書を学び,江戸に出て名を成したという.「玉蕉百絶」とい
    う詩集 (1849) があるそうだ.女性らしい感覚にあふれた作品だと感
    じたので,とりあえず訳してみようという気になった.
    
      おそらく,江戸時代における漢詩というのは,現代の若者たちが英
    語のフレーズを散りばめた歌詞でロックやフォークを唄うのと同じ感
    覚なのではなかったかと勝手に想像して,今様のパスティーシュを試
    みてみた.最後の一行はわたしが勝手につけたしたもの.
    

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        やさしい敵
    
      おさけ きれちゃった
      さくらも おわって
      むなしい あさ
    
      さむいわ
      なんだか さむけがする
      とりはだが たちそう
    
      もう いや
      なんにも かんがえるきが しない
      にわは きりさめ
    
      とらんぷの ひとりあそびも
      あきちゃったし
      はるは やっぱり やさしい敵
    
      ------------------------
    

      ついでに,江戸漢詩のパスティーシュをもう一篇.作者は,頼山陽
    に可愛がられたという美濃 大垣の才媛・江馬細香 (1787〜1861).か
    の女が59歳のときの作だという.おそらくこれは,父親の反対にあっ
    て実らなかった山陽との若き日の不倫の恋の想い出を唄ったものであ
    ろう.
    

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          夏夜
    
        碧天如水夜清涼
        月透青簾影在觴
        細酌待人人不到
        一繊風脚素馨香
    
      ------------------------
    
        サマーナイトブルース
    
      みどりの夜空いっぱいに
      だれかが
      アイスキューブをまきちらした
    
      さあ お月さま
      あたしのグラスに
      おりていらっしゃい
    
      ジャスミンの香りの
      カクテルを手に
      ずうっと待っているのだけれど
    
      あなたはなかなかやってこない
      いやにつめたい風が
      からだのなかを吹きぬけてゆく
    
      ------------------------
    

      もう一人だけ,こんどはアメリカから,ひとりの魅力的な女性を紹
    介しておこう.映画化されビデオにもなったた「ブルードレスの女」
    (Devil in Blue Dress) に始まるミステリ・シリーズで,ロサンゼル
    ス黒人社会の歴史を書き続けているウォルター・モズレーの新作:
    "Always Outnumbered, Always  Outgunned" に登場する女性である.
    といっても,物語の主人公 (インディアナの刑務所を出てロスの黒人
    ゲットーに移り住んだソクラテス・フォートローという元殺人犯の老
    人) の回想シーンにでてくるちょっと頭のおかしい叔母さんなのだが,
    ....
    
         「神様はこの近くにはいないのよ,坊や」とソクラテスの叔母さ
       んべランドラ・ボーフォートは,よくいったものだった.「あの人
       は,何百万マイルも向こうのどこか海のまんなかにいるの.そして,
       みんながいっているような白人じゃないんだよ」
    
         「じゃあ,神様は黒人なの?」と幼いソクラテスは,このやせた
       背の高い女性にたずねた.かれは,かの女の膝のうえにすわり,そ
       の骨ばった胸に頭をもたせかけていた.
    
         「違うのよ,坊や」とかの女は悲しそうにいった.「あの人は黒
       人でもない.もしかれが黒人だったら,わたしたちがここでこんな
       にみじめな暮しをしているわけがないわ.違うの,神様の肌は青い
       のよ」
    
         「青いの?」
    
         「そうよ,海と同じように青いの.空が遠くにあって青いみたい
       に,神様は遠くにいて悲しくて冷たいの.神様に会うにはとても遠
       くまで行かなければならないの.そして,もしそこへいったとして
       も,あの人はなにもいってくれないのよ.ひとことも口をきいてく
       れないの」
    
      この Blue God の説話は,詩的メタファとして,きわめてよくでき
    ていると感じた.こうしてストーリーから独立させても,十分な存在
    感を保っている.たまたま,この小説を読んだのは,シカゴでホテル
    の部屋にこもって仕事をしていたときのことだったので,前日の夜,
    オールドダウンタウンの倉庫を改造して造られた劇場で観たばかりの
    Blueman Group の舞台を思わず連想した.
    
      これは,ニューヨークの前衛アーティストたちが自宅のパーティで
    試みたパフォーマンスをふくらませて1時間半ほどの出し物に発展さ
    せた即興芝居で,何年か前にボストンで初見したのだが,あのときは
    まだそれほど メジャーにはなっていなかった.今度 の公演のパンフ
    レットを見 ると,ニューヨーク,ボストン,シカゴ の3個所で常打
    ち.そのほかにラスベガスでも上演するとあった.ずいぶんの出世で
    ある.いずれは日本公演も (?).
    
      内容は,スキンヘッドの頭部を青いペンキで塗り固め,茶色の作業
    服に身を固めた3人の  Blueman たちがくりひろげるナンセンスアク
    トと,何人かの観客を舞台に引き上げての即興喜劇の組み合わせだが,
    前回もそして今度も感動したのは,客席の背後およびサイドにあらか
    じめセットされている数百のトイレットペーパ掛けから,観客全員が
    白いペーパの帯を引き出し,それを頭上でバケツリレー式に舞台へ舞
    台へと送り出すという,ラストのパフォーマンスである.挑発的なド
    ラムのリズムと強烈なストロボのフラッシュの中で,真っ白いトイレ
    ットペーパの波が舞台に立って拍子をとっている3人の Bluemanたち
    に向かって押し寄せて行く光景は,涙がでるくらい感動的であった.
    同行した友人は「未開野蛮のアメリカが生んだ世紀末ポップアートの
    傑作だね」と帰りの地下鉄のなかでつぶやいていた.
    
      詩や小説のジャンルで同じような効果を上げようとしたら,やはり
    音楽との組み合わせが必要だろう.故フランク・ザッパなどは,音楽
    の側から,ときどきそうした方向を試みていたのではないかと考えら
    れる.決して成功したとはいえないが,...
    
    3. ポップ・アートつまみ食い
    
      今年,アメリカ出張のさいに足を運んだ美術館やギャラリーでもっ
    とも印象に残った展示はといえば,先月ニューヨークのホイットニー
    美術館で開かれていたバーバラ・クルーガーの回顧展であった.
    
      1969年に若干22歳でマドモアゼル誌のチーフ・アート・ディレクタ
    に抜擢されたこの女流アーティストは,1970年代の後半から,写真と
    短文とを組み合わせたユニークな「コンセプチュアル・アート」の作
    品を,ポスター・街頭掲示板・ TV  コマーシャル・ T シャツ,ショ
    ッピングバッグなど,さまざまな形態で発表してきているが,今回の
    展示は,広い美術館のギャラリーのスペースを一杯に (つまり壁面だ
    けではなく床や天井まで) 使って,圧倒的なパワーで観客に迫ってく
    る感じであった.3月にサン フランシスコ近代美術館 (SFMONA)  で
    観たソル・レヴィットの回顧展も,やはり同じような形式だった.
    
      一般にもっともよく知られているバーバラの作品は,モノクロ写真
    の上に,赤地に白抜きで3行に分けたアフォリズム風のテキストを貼
    りつけた形式である.それらの作品のいくつかは,インターネット上
    でも見ることができるが,狭いコンピュータ・スクリーンの上ではや
    や迫力に欠ける.
    
      かの女の名前をもっとも有名にしたのは, 1989年にワシントン DC
    で行われた「人工中絶そのほか女性の権利拡大」を訴えるデモ行進用
    のポスターとし て作られたもの.画面を中央で分 割し,左半分はポ
    ジ,右半分はネガで,挑戦的な表情の若い女性の顔が印刷され,その
    上に:
    
                         --------------------
                              Your body
                                 is a
                             battleground
                         --------------------
    
    というテキストが3行に分けて貼りつけられている.
    
      もうひとつわたしが気に入っている作品は,石をぶつけられて割れ
    た鏡に映った女性の顔の上に:
    
                         --------------------
                               You are
                                 not
                               yourself
                         --------------------
    
    というテキストを貼りつけたものである.それが The World's Women
    Online の WebPage に置かれているというのもおもしろい.
    
      これらのクルーガ−の作品を,芸術として高く評価するか,いや単
    なる広告のヴァリエーションにすぎないとして軽視するかは,ひとに
    よって異なるだろう.ただし,これらの作品が訴えているもうひとつ
    のメッセージ「絵画を画廊や美術館から救い出して街頭へ,そして,
    詩を書物のペー ジから解放して日常生活の中 へ!」というアピール
    は,決して無視できないように思われる.
    
      たとえば,「わ れ思うゆえにわれ在り」という アフォリズムをも
    じって:
                         --------------------
                                I shop
                              therefore
                                 I am
                         --------------------
    
    というパロディ・テキストをプリントした布製の買い物袋は,まさに
    ひとつの「詩」だといえよう.そして,ニューヨーク市の街路浄化運
    動の街頭宣伝掲示板に使われている作品:
    
                         --------------------
                             It's a small
                                world
                   but not if you have to clean it
                         --------------------
    
    も,ゴミが撒き散らされた街角のビルの壁面いっぱいに飾られていれ
    ば,見る人の心にある種の感動を呼び起こすにちがいない.
    
      かの女は,いまのスタイルを確立する以前,1979年に書物のかたち
    で "Picture/ Readings" という 作品を発表している.この作品は10
    枚のパネルから成っており,それぞれのパネルの左半分にはバーバラ
    自身がカリフォルニアおよびフロリダで撮影した建物の写真,そして
    右半分には,そこに住んでいる人びとのイメージについてかの女が勝
    手に想像した文章がタイプされている.
    
     --------------------
    
     かれんハ窓ギワノ椅子ニスワッテ棕櫚ノ樹ノテッペンヲナガメテイ
     ル.茶色イトゲトゲト深緑色ノ葉ッパ.まーくガらじおノだいやる
     ヲアワセルト,えこーノカカッタ男ノ声ガ高価ナすぴーかカラ流レ
     ダシ,イヤラシイ低音デ地元ノ音楽れーべるノだいなみっくナ人気
     上昇ニツイテ語リダス.まーくノ声ガ,マルデでゅえっとミタイニ
     らじおノ男ノ声ト重ナリアッテ,コノアイダ一緒ニ読ンダ小説ノコ
     トヲ話ス.ソレカラ,四川料理店ノめにゅーヲ読ミアゲタカトオモ
     ウト,金持チノ白人ノ坊ヤタチニツイテ,抑揚ノナイ口調デ悪口ヲ
     ハキダス.襟飾リツキノ黒イぽろしゃつヲ着テイルヤツラヲミルト,
     ツイブンナグリタクナルゼ.かれんハ窓ニ背ヲムケテまーくノホウ
     ヲ振リカエル.カレハ鏡ヲミツメテイル.せくしーナ唄ガらじおカ
     ラキコエテクル.鰐ノ絵ガツイタまーくノ赤イTしゃつハカナリモ
     ウ色アセテイテ,アチコチニ白イ筋ガツイテイル.褐色ノ腕トしゃ
     つノ赤イ色トノ境目ヲタシカメヨウトシテ,カノジョハ袖口ノアタ
     リヲジットミツメル.カレハムコウヲムイテシマウ.しゃつノ背中
     ニハ,2枚ノ翼ノ模様ノぼたん飾リ.ずぼんハチョットヨゴレテイ
     テ,ひっぷハピッタリナノダガ,腿ノアタリハスコシユルイ.すに
     ーかハ緑色ノすえーどデ,両側ニ白イぷらすちっくノ線ガハイッテ
     イル.カレハ2めーとるクライハナレタ位置デ,両手ヲダラリトサ
     セナガラ,コチラヲ振リムキ,らじおカラキコエテイル唄ノコトヲ
     ハナシハジメル.カレガナニカヲシャベルト口ノマワリニシワガデ
     キルコトニかれんハ気ヅク.ソシテ,望遠鏡ヲ持ッテアノ棕櫚ノ樹
     ニノボッテミタラドウカシラト,ボンヤリ考エハジメル.南海ノ青
     いんくノナカニウカンダ白イ斑点.一本ノ木モ生エテイナイ小島ヲ
     れんずノナカニトラエルコトガデキルカシラ ....
    
     --------------------
    

      上に訳出した散文詩  (?) が書かれたパネルの写真部分には,おそ
    らくフロリダであろう天窓つきの家の屋根の上部とその前に立ってい
    る2本の大きな棕櫚の樹が写っている.文章の調子は,ニューヨーク
    ・マンハッタンを舞台にした矢作俊彦の短編小説に一見似ているが,
    矢作氏の作品が他国のライフスタイルへの憧憬を底に秘めているのに
    対して,バーバラのテキストは崩壊寸前の自国の社会状況に対する乾
    いた絶望で彩られている点が,きわめて対照的である.
    
      ホイットニー美術館では,かねてからわたしが兄弟子として尊敬し
    ているボブ・ラウシェン バーグの新作:"Synapsis Shuffle" の展示
    も行われていて,実はここを訪ねた主目的はそれだったのだが,結果
    はやや期待はずれだった.
    
      この作品は,9.5フィートの高さの 52枚のパネルから構成されてい
    る.それぞれのパネルには,ラウシェンバーグ自身があちこち旅行し
    たときに撮影したスナップショットの断片などがコラージュ風にちり
    ばめられている.そして,これらのパネルを,子供向けのランダム作
    詩カード玩具よろしく,しかるべきコンポーザが選択し,並べ換える
    (一応,最低3枚,最高7枚は用意 されたパネルを使うこと.ほかに
    新しいパネルを加えてもよいというのがルール) と具体的な作品がで
    きあがるというわけ.
    
      今度のホイットニー美術館での第1回展示では,さまざまなコンポ
    ーザの手によるシャッフルの結果が並べられていたが,初期のラウシ
    ェンバーグの作品群 (有名な黒のシリーズや,「ベッド」などのコン
    ポジット・アート) とくらべると,観る者に対するインパクトがきわ
    めて弱いように感じた.それが,オリジナル・パネルの弱さによるも
    のか,それともコンポーザの力のなさによるものかは,いまのところ
    はっきりしない.
    
      同じラウシェンバーグの作品では,3月に SFMONA で観たやはり一
    種のシャッフル・アート,何十枚かのハンカチ大の布地にさまざまな
    イメージをシルクスクリーンで印刷し,それらを横長一列にジッパー
    でつないで,ギャラリーの壁2面にわたって陳列したもののほうが,
    わたしにとっては新鮮であった.
    
      作品を一目観たときに感じたインパクトの強さという点では,シカ
    ゴの画廊で思いがけず観る機会があったフランク・ステラの彫刻も忘
    れられない.これは,不定型の鋼鉄板を溶接して作られた有機的オブ
    ジェに蛍光アクリルでまだらに彩色したもの.ステラの作品は,もっ
    と機械的・幾何 学的なものではないかという先 入観があったので,
    ちょっと新鮮な驚きを感じた.今後の動向をマークすべき作家をまた
    ひとり見つけたように思う.
    
    4. さよなら,20世紀!
    
      さて,予定のページ数もおわりにちかづいた.わたしたちの生きて
    きた世紀への別れの唄を一篇,自己流の翻訳で紹介して,この稿を終
    ることにしよう.

    
      ------------------------
    
        最後の一杯 (Last Call)
    
      そしておれたちはまた
      詩と見せかけの一夜をすごした
      だれもがまたひとりぼっちになるのだとわかっていた
      聖なる酒場が閉まるときには
    
      そこでおれたちは最後の杯を傾けるのだ
      それぞれの喜びと哀しみのために
      そしてその酔い心地が続いてくれることを願う
      せめて明日がはじまるまではと
    
      まるで舞台の上で痙攣する踊り子のように
      よろめきながらまたカウンターに戻ってきたときには
      だれもが何を訊ねるべきかをわかっている
      そしてみんながその答えを知っている
    
      おれたちは最後の一杯を飲みほすだろう
      それはおれたちの脳みそを切り裂き
      せっかくの答えをぐちゃぐちゃにしてしまう
      まるで質問など何もなかったかのように
    
      おれの心はいつのまにかこわれてしまったが
      明日にはまた直っているだろう
      もしも生まれた時から酔っ払っていたら
      哀しみなど知らずにすんだものを
    
      だからおれたちは最後の乾杯をするのだ
      みんなひっそりと押し黙ったまま
      むしろこわれてしまったほうがよいタイミングを知っている
      そんなにも賢い心のために
    
      ------------------------

    
      これは 1960〜70年代に ニューヨークで活躍したブルーグラス歌手
    デイブ・ヴァン・ロンクの詞.ミステリ作家ローレンス・ブロックが,
    この唄をテーマにアル中探偵マット・スカダーものの傑作を書いてい
    て (邦訳は二見文庫「聖 なる酒場の挽歌」),作中に挿入歌としてこ
    の詞が紹介されている.だいぶ以前に読んだのでもうほとんど忘れて
    しまったが,田口俊樹氏の訳は,本文の文体に合わせたためか,詞と
    しては少し固すぎるような気がした.
    
      小説の中の説明 によると,ロンクはこの詞を無伴 奏 (a Capella)
    で唄っているらしい.アメリカに出張するたびに中古レコ−ド屋を探
    しているのだが,まだみつからない.入手した別の CD の解説による
    と,かれはビレッジのワシントン広場あたりでよく唄っていたという.
    ブロックもニューヨーカーだから,ふたりはその辺で知り合ったのだ
    ろう.わたしが初めて ニューヨークを訪れた 1970年の夏には,ワシ
    ントン広場はヒッピーたちの狼藉を防ぐために鉄条網がはりめぐらさ
    れていて,街頭音楽などを楽しむ雰囲気ではなかった.
    
      しかし,こうして 日本語におきかえてみると,ま るでアメリカ版
    「ちゃんちきおけさ」とでもいうべき演歌になってしまって,「だか
    らフォークは 軟弱で嫌なんだ」とハードロック好き の友人がいつか
    酔っ払って吐き捨てたセリフが思い出される.
    


SRA KISHIDA Kouichi, k2@sra.co.jp